第八話 予期せぬ再会、望まぬ再会

「東条組について調べるんですか?」

 夜の道路を走るハチロク。その後部座席に座った有希が、不安そうな声で尋ねてきた。

 対し、運転を務めている重光は頷く。

「ああ。一連の東条組組員殺害事件、これを意図して、実行に移したのは組の人間とみてほぼ間違いはないだろう」

 目の前の信号が赤になった。

一旦、ハンドルから手を放すと、重光は胸ポケットから小箱を取り出した。パッケージに踊る文字は『氷雨』。

「根拠は何ですか?」

 紙巻き煙草に火を灯す重光に、有希が重ねるように尋ねた。

「大体二つある」

 今度は青へと替わる信号に従い、アクセルを踏み込みながら答える重光。

「一つ目は、()られたのが組の者だったこと。ヤクザが死ぬのは大抵他の組との抗争に巻き込まれたときか、あるいは――」

「……始末される時」

 有希が、神妙な面持ちで呟く。

 片手でシガレットを摘まんで口から離しながら、重光はまたも首肯する。

「それが常だ。そして二つ目。妙に上手く出来すぎてるんだよ、今回の件」

「……?」

「現場に残された毛髪、逃走先の情報の漏洩、そして何よりも事件が起こり始めたタイミング……。まるで、俺を陥れるために用意されたみたいだろ?」

「…………」

「問題はどうしてそんなことをしたかだが――」

 考えを巡らせる重光の背後に座る有希は、ずっと黙って俯くだけだった。

 

 

「仁科縁里は今回の件とは無関係――あなたはそうお考えなのですね」

 自車の青いスカイラインのハンドルを握りながら、蒼月は助手席の宇津木に語り掛けた。パーキングに移る前に警察署内で話し合ったことの続きだ。

 宇津木は困ったように頷きながら、

「考えている、というか、ただの勘なんですがね。現場に彼女のペンが落ちていた、というだけでは証拠として脆弱な気がするんです」

「それは私も同感です。何か作為めいたものを感じます」

 そこまで言って、蒼月は一度言葉を切った。そして一瞬躊躇するように言い淀みながら「しかし」と付け加える。

「二番目の遺体。あれを行えるのは限られている。医学に精通した人物の犯行であることは自明ですね」

「はあ、そこなんですよねぇ……」

 頬を掻く宇津木。

 蒼月の言ったように、遺体から全身分の血液を抜き取るという技術は、実際に存在するものの、極めて高い医療的技術が求められる。

しかしながら、あの歳で周囲が一目置く検死官というポジションを欲しいままにしていた仁科なら、不可能なことではなかろう、というのもまた正しい。

では、やはり犯人は仁科なのか? しかし――

宇津木が深い思考に沈み込もうとしていた時だった。

ふと、一台の車がスカイラインとすれ違う。

見慣れたフロントに、特徴的な後部。そして、その運転席に座る男。見覚えがある。あれは……

「鴇永検事、今すれ違った車を追ってください!」

 咄嗟にそう叫んでいた。

「え、何故です?」

 困惑したようにこちらを見てくる蒼月に、宇津木は今しがた目にしたものを興奮もあらわに告げる。

「あのハチロク、あれは私の車です。そして、運転しているのは――高橋重光だ!」

 

 

 鈍色の雲に覆われた夜空の下を、重光が運転するハチロクは走っていた。

 ラジオから聞こえてくる天気予報によれば、夜のうちは曇り時々晴れ、明日の午前からは雨が降るという。

 有希はといえば、後部座席で寝ている。盗難車でホテルに乗り込めば持ち主やその知人に見つかって足がつく恐れがある。最悪今夜はどこぞのサービスエリアで夜を明かすことになるかもしれないということで、先に寝かしておいたのだ。

 と、そこで、気づいた。

 背後から近付いてくる、二つのライト。

 何かと思えば、先程すれ違った青いスカイラインだ。車間距離はまだ五キロは離れているが、それも徐々に狭まってきている。

 どこの誰だかはわからないが、あの動きは間違いなく重光たちを追っている。

「……」

 一瞬、後部座席の有希へと視線を向けるが、

(騒ぐと面倒だ。必要になったら起こそう)

 そう思い直し、バックミラーへ意識を戻した。

 

 

「いいですよ、鴇永検事、あいつらはまだ気が付いていない」

 助手席から身を乗り出しながら、宇津木が呟くように言った。

「しかし警部補、どうやって止めるつもりです? 少々手荒なことになるとは思いますが」

「これがあります」

 ハンドルを切りながら問う蒼月に、宇津木はジャケットの内側に手を入れ――拳銃を取り出して見せた。

「ギリギリまで近づけてくれれば、これでタイヤを撃ち抜きます」

「……」

 数瞬、蒼月は唖然とした表情で宇津木を見た。

 しかし、やがて溜息を吐くと微かな笑みを浮かべる。

「……誤射とかやめてくださいよ? 警告なしの射撃だって本当はアウトなんですから」

「心配ご無用。射撃の成績は全国でもトップクラスだし、治安が悪いこの街だとその程度なら厳重注意で済みますよ」

 

 

 ジリジリと車間距離を詰められる。彼我の間には、もう一台入るか入らないかくらいの隙間しかない。

「……頃合いか」

 バックミラーを見ながら、重光が呟く。

 急ブレーキをかけるために左足に力を籠め、両手は大きくハンドルを切る準備に入る。

「――今だな」

 上げた足で、思い切りブレーキを踏み込もうとしたその時だった。

 耳をつんざくような破裂音。直後に、車体が大きく沈む。

「どういうことだ!?

 さすがに動揺を隠せなかった。

 ブレーキを強く踏んだ左足によって、車体はなんとかその勢いを落としつつあるが、しかしどうにもコントロールが効かない。

 結果、ハチロクはスピンしながら大きく軌道を変え――やがて、一軒の日本邸宅の裏庭へと突っ込む。

 そして、何よりも最悪なこと。

その屋敷の表札に書かれている文字は――

 

 

「ええい、クソっ! 今日は厄日か何かか!?

 重光の運転するハチロクが日本邸宅に突っ込んだのを見て、宇津木が顔を歪めた。

 本来ならばここまで滅茶苦茶なことになるはずが無いのだが、直前で重光側が何かをしたのか、しようとしていたのか。

 スカイラインが停車する。

 よもや死人や怪我人はいるまいなと思いつつ、被害を確認するために車を降りようとする宇津木。

 しかし、できなかった。

 片腕を掴まれ、そのまま車内へ引き込まれたのだ。

 もちろん蒼月だ。

「何を――」

「申し訳ない。しかしあなたをあんな危険な場所へ一人で行かせるわけにはいかないんです!」

 抑えてはいるが、緊迫した声で彼は言う。

 思わず眉を顰める宇津木に、蒼月は日本邸宅の方を見ながら続けた。

「あそこは、東条重雄――東条組組長の私宅です……っ!」

 

 

 そして、刑事と検察官が固唾をのんで見守る東条邸の中で、二人の男が対峙していた。

 一人は言うまでもなく重光だ。

 問題はもう一人。野犬のような痩躯を無地の着流しで包み、はねっけの強い白髪を無理やり整髪料で固めた老翁。

 老翁がニヤリと口の端を歪める。

「おうおう。どこの若ェ(モン)かと思えば……テメェだったか、重光(クソガキ)

 対する重光も獰猛な笑みを浮かべながら、首筋に嫌な汗を滲ませて言う。

「悪ィな、俺も吹っ掛けるつもりは無かったんだが……どうやら不良品だったらしい。古い車は嫌いじゃねぇが、脆くていけねぇな?」

 そこで老翁が目を細めた。手に持った杖の頭を一撫でして言う。

「口の利き方には気を付けろよ、ガキ」

「俺はもう組の者じゃねぇ。好きに呼ばせてもらうぜ」

 そこで重光は言葉を区切り、周囲を一瞥する。

 ……武器になりそうなものは無い。

 重光は知っている。この老翁は、侵入者を丸腰で出迎える程愚かではない。絶対に武器を隠し持っている。

 ジリ、と後ずさりながら、重光は老翁への言葉の続きを口にした。

「なあ、重雄(オヤジ)?」

 重光と老翁――重雄が睨み合う。

 チリチリと焦げるような緊張。

 まさに一触即発。

 その時だった。

「う……ぅん……」

 動きを止めたハチロクから、呻き声が聞こえてきた。

 失神していた有希が目を覚ましたのだ。

 事態を悟り、重光の全身から血の気が引く。

「ばっ、待て! 顔を出すな!」

「え? どうしたんで――」

 慌てて叫ぶが、遅かった。

 窓からひょっこりと顔を覗かせた有希の、その瞳が、重雄の姿を捉えた。

「――え」

 有希の寝惚け顔が、一瞬で驚愕に染まる。

 まずい。

 重光側に弱点があることがバレてしまった。

 錆びついた機械のような動きで、視線を重雄に戻す。

 老翁の顔に浮かぶのは、笑み。

 邪悪で、凶暴で、獰猛――そんな、笑みだった。

 背筋が凍るのを感じる。

 視線の先の重雄が、口を開こうとして――直後に、弾かれたように明後日の方へ顔を向けた。

 重光の耳にも届いたその音が、彼の硬直を解く。

 それは、ここ数日間で大分聞きなれた、低いサイレンの音。

「サツだとぉ?」

 重雄が訝しむように呟いたその隙を狙って、重光は行動へ移った。

 運転席に転がり込み、シフトレバーをバックへ設定。そのまま一息にアクセルを踏み、後輪のパンクなどお構いなしに邸宅から逃げ去る。

 パトカーの集団はまだ遠い。これなら必死になれば撒くことはできそうだ。

 最後の瞬間、バックミラーを一瞥する。

重雄はその位置から一歩も動いていない。

ただ、一つ。

重光には、その口元がまだ笑っているように見えた。