第七話 宇津木の疑念、そして受難

 外の空気を吸うついでに缶コーヒーを買うことにした宇津木は、無糖の黒いスチール缶を片手に捜査本部に戻ってきたところで、意外な人物に出くわした。

 羽黒紅雪である。

 彼はと言えばこちらに気付いてない様子で、携帯電話でどこかと連絡を取り合っているようだった。

 声をかけるのに良い距離にまで近づいたところで、ちょうど先方の通話も終わったらしい。耳に当てていた携帯を胸ポケットに戻している。

「検死で何か分かったんですか?」

 軽い気持ちで声を掛ける。すると、羽黒がピタリと動きを止めてこちらを向いた。

「検死についての連絡じゃなかったんですか? 今の電話」

 返事が無かったのでもう一度尋ねると、羽黒は「ああ」と納得したような顔になって、

「今のは別の案件で……」

 と、相も変わらず暗い声で答えた。

「や、失礼。つい東条組の件かと」

 ハハハ、と笑って見せる宇津木。しかし、羽黒は何かに慌てたように「では」と廊下の奥へ去ってしまった。

(怒らせてしまったかな……)

 バツが悪く、頬を掻く宇津木の前で、捜査本部の扉が開く。

今度は蒼月だった。先程の失敗が尾を引いているのか、その表情は沈んでいる。

「鴇永さん」

 呼びかけてみると、どこか疲れ切ったような顔でこちらを向く蒼月。

「ああ、宇津木警部補」

 それでも、声だけは気丈なふりをしていると見える蒼月に、宇津木は努めて明るく笑いかけてみせた。

「ちょっと、そこらで休憩しませんか?」

 

「……私の失態です。よもやこんなことになろうとは」

 署内の一角に存在する休憩スペースで、蒼月が重々しく口を開いた。

 この職に就いて犯した、初めてのミス。

 見たこともない、冷たい表情をしていた。しかしその瞳に燃える執念じみた色は、憎悪と屈辱によってより燃え上がっている。

 そんな蒼月を労う様に、肩に手をポンと置く宇津木。

「あなただけのせいではありません。かと言って、だれの責任かを問い質すのも野暮でしょう? 次の計画に精を向けましょう」

 そのスペースにも設置されていた自販機に百円玉を二枚入れ、自分と揃いのコーヒーのボタンを押す。

 ガタンッ、と落ちてきた黒いスチール缶を手に取ると、蒼月の方へと差し出した。

「年上なんですから、これぐらいはさせてください」

 そう言うと、蒼月の頬がほんの僅かに緩んだような気がした。

「すみません。ありがとうございます」

 頭を下げつつ受け取り、蒼月は喉へコーヒーを流し込んだ。

 彼が缶から口を離すタイミングを見計らって、宇津木はベンチを手で示した。

「どれ、少しおっさんの話に付き合ってはくれませんか?」

 おどけた風にそう言ってみると、堪え切れないといった様子で蒼月が噴き出す。

「コーヒーを奢った後にそんなことを言い出すとは……宇津木さんも人が悪いですね。断れないじゃないですか」

「いや、ハハハ……」

 促されるままに座った蒼月と向かい合う様な位置に腰を下ろす宇津木。

 コーヒーを口に含み、そのまま嚥下する。

 炒った豆の香ばしい香りを鼻の奥に感じながら、宇津木は静かに口を開いた。

「これは少し前の話なんですがね――」

 

 

 数年前のことだったか。

 衝撃的な事故が起きた。

《男子大学生、建設途中の鉄骨の下敷きになり死亡》。

 各社の新聞はそんな見出しを付けて、その事故を大々的に報じた。

 クレーンによって上空で運ばれていた鉄骨二本を固定していた金具が外れ、真下にいた男子学生を死亡させたのだ。

 この事件の担当刑事こそ、何を隠そう宇津木その人であった。

 宇津木は、到着した時の現場のありさまを、克明に覚えている。

 地面に迸った血飛沫に、散乱した体組織。鉄骨が脳天から落ちてきたのか、死体は頭部とその下部がぐちゃぐちゃに破壊され、原形を留めていない。

 周囲の野次馬も混沌としていた。凄惨な事故現場を囲むのは、あるいは大声で泣き喚く子供だったり、目を背け、物陰で嘔吐する女性だったり、あるいは半ば狂的な表情を浮かべながら、遺体にスマートフォンのカメラを向ける若者であった。

 あまりにも混沌としていた。やっとの思いで現場を封鎖するも、余りに惨憺たる事態に、鑑識課も思うように行動できなかった。

 さらに捜査を難航させたのが、遺体に身元を確認できるものが何一つなかったことだ。当時は休日で、学生証も持っていなかった。

 しかし、絶望的な状況を打開する唯一の物があった。目撃証言である。

 第一発見者から話を聞いたという作業員は、こう語った。

 ――死んだのは(こう)()だ。

 光哉、というのは、現場に程近いところにある大学の、法学部に在籍していた青年だ。

 作業員は続ける。

『アイツとはよく知った仲でなぁ……。悪いことをしちまったよ……クソっ、クソっ!』

 聞けば、その光哉青年は苦学生の身で、勉学への費用を捻出するために、親しい友人と二人でその作業員の仕事を手伝うことも多かったという。

 そして、その親しい友人というのが、第一発見者その人であった。

 卒業を間近に控えていた二人は、ともに街を散歩していた。その時、あの事件が起きた――。

 その友人から聞かされた真相は、それだけだった。

 青い顔をしたその友人に、宇津木は最後の質問を投げかけた時を思い出す。

 利発そうな顔立ちのその彼は、震える唇でこう名乗った。

 ――僕の名前は――

 

 

「――鴇永蒼月。そいつはそう名乗ったんですよ」

「……」

 黙りこくる蒼月に、宇津木はその名前を告げた。

 ぬるくなったコーヒーの缶を傾けながら、続ける。

「ところがおかしいことがありましてねぇ」

「おかしい……?」

「ええ」

 やっと反応を示した蒼月に、宇津木はひとりごちる様に言った。

「最初に出てきた作業員とは別の作業員。アイツの話によれば、彼が見たもう一人の青年――つまり、第一目撃者となった方は、光哉のように見えた、というんですよ。残念ながら、確かめる術は失われてしまいましたがね」

「……それを僕に話して、何だというのです?」

 蒼月は、冷静に――少なくとも、そう取れるような態度で、応じた。

「たとえ同姓同名だとしても、そんな記憶は僕にはありませんし、ましてや入れ替わる理由が無い」

 今度は、宇津木が黙る番だった。

 その間も、若き検察官は饒舌に言葉を紡ぐ。

「アハハ! まあ、中々に面白い話でしたよ。警察署の不思議話として語り継いでいけばよろしい。ところで、こんな雑談もそろそろ切り上げて、今後の作戦について打ち合わせをしたいのですが。具体的には――」

 新たな方策について語り始める蒼月を見つめながら、宇津木は最後の情報を思い出す。

 それは、被害者となった青年の、フルネーム。

 光哉と呼ばれた彼の姓は、高橋。

 高橋光哉というのが、彼の名前だという。

 

 

 一方その頃の重光といえば、歩き始めて五分もしないうちに方針転換を強いられることとなっていた。アシ探しである。

 始めは徒歩で落ち着ける場所に向かおうとしていたのだ。

 ところが、七〇〇メートルほど歩いたあたりで最神有希嬢がこうのたまったのだ。

「疲れました。車とか確保しましょう」

 ……もちろん、見繕い・ピッキング・運転はすべて重光レンタカーリース(返すとは言ってない)の提供である。

思わず拳骨をくれてやろうかとも思ったが、有希の妙に迫力のある満面の笑みをみて引き下がった。

あれには本気でやりあったら勝てない。ヤクザは彼我の戦力さを見極める事こそ肝要というのは有名な話か。

というわけで、最寄りのパーキングである。

治安の悪いことでは折り紙付きの、夜の白烏街だ。夜一時くらいからは魔法の時間。『盗まれる方が悪い』というジャイアンもびっくりな狂った理論が成立する。

所狭しと並べられた車の間を歩き、目に付いた(ブツ)を指さす。

「お、あれなんかどうだ?」

「目立ちます」

「あれは――」

「派手です」

「あれなんか――」

「論外です」

「…………」

 揚げた案を悉く切り捨てられ、片手で目を覆い、空を仰ぐ重光。なんだか、だんだん有希の本性が見えてきた気がする。

 と、とある車の前で有希の足が止まった。

「あ、これ……」

 呟く有希の後ろからどれと覗いてみると、そこにあったのは細長いライトと背部の形が特徴的な一台の車。

「ああ、ハチロクじゃねぇか」

 トヨタAE86。

 バブル時代に出回った、安価なスポーツカーだ。

 プレーンな状態では特筆すべき所も無いが、この車は一手間を加えることで真価を発揮する。

 元の車体が安価なため、改造費用を勘定に入れても純正品より安上がりで同等の性能を発揮する車へと変身するのだ。

 当時はドリフトなどの遊びに使われたとかなんとか。

 伝聞調なのは、組にいた頃、そちら方面にやたら詳しい奴から聞いてもいないのにベラベラとよく聞かされたのを憶えていたからだ。酔いつぶれると決まってこの話をしてきた。

 アイツの車もハチロクだったなぁと重光が美しい思い出に浸っていると、袖をちょんちょんと引く者がある。

 言うまでもなく有希である。

 なんだか眩しいくらい目をキラッキラに輝かせながら、真っ直ぐにこちらの瞳を覗き込んでくる。

「私、この車が良いです!」

「……えぇー……?」

 思わずげんなりした声を上げる重光。

改めてハチロクの外見を眺める。

 これがこぢんまりとした可愛らしい軽自動車ならわかるのだ。しかし、どちらかといえばおっさん向けのこのフォルムのどこが乙女の心を掴んだというのか皆目見当もつかない。

 が、そんな重光の困惑なぞどこ吹く風で、有希はハチロクを眺め続ける。その頬はわずかに紅潮さえしていた。

 彼女の視線が、再びこちらを向く。

 なんかもう、その瞳は、紙芝居の開演を飴を舐めながら待つ昭和の子供のそれだった。

 そして、そんな眼差しを向けられたおっちゃんの取るべき行動は一つである。

重光は、大きな溜息を一つ吐いて、ハチロクの鍵穴を除き込んだ。

 

 

 数時間後。

 宇津木は、夜のパーキングで呆然と佇んでいた。

 ……白烏警察署には職員用の駐車場が存在しない。なので、所属する警官は全員近場のパーキングを各々使用することとなっている。

 が、無かった。

 今朝、確かに停めたはずの場所から、愛車の――ハチロクの姿が無くなっているのだ。

 無言で俯く彼の肩に、手を置く者があった。

 振り向くと、蒼月がいた。

 蒼月は瞑目し、静かに首を横に振ると、背後にある自分の車を黙って指差す。

 がっくりとうなだれ、手を引かれるままについていく宇津木の背には、言い様のない哀愁が漂っていた。