第一話 出会い

 高橋重光は、東条組の団員だった。いわゆる極道だった。

 壮年期に差し掛かった頃、彼はある問題を抱えるようになった。

――あいつ、手の平返したんじゃねェのか?

全く身に覚えが無かった。むしろ、身を粉にする覚悟で組に仕えてきたという自負すらあった。賭博の仕切り、余所との仲裁に外資系との密約……。

重光の勤め方はそれこそ完璧だった。

しかし、だからこそ、周囲からの反感を買ってしまった。

平たく言って、重光は組を「捨てた」。厳密に言えば、「捨てざるを得なかった」方が正しいか。

周囲からの冷淡な当たり。

――内輪揉めで組を潰すわけにはいかない。

(しかし、俺がここにいる限り……ならば――)

 組の未来を案じ、自分が下した選択。そこに後悔は無い。だが、彼は危機に瀕していた。

 これからどうやって飯を食っていけば良い?

 同僚の伝手は切り捨てた。学歴なんて持っていない。第一、極道に身を置いていた者を雇うところがあるのだろうか。気が付けば、残った銭すら底が見えていた。

 仕事のために何度か足を運んだ()(がらす)街。気づけば、そこまで彼は歩みを進めていた。

(俺も落ちぶれたな。いや、あの時から既に俺は居場所なんて持っちゃいなかったのか)

 自嘲する。気が付けば、世間はもう年始を迎えていた。焼酎が美味そうな、冬の凍てつく風。

(あいつら酒に弱かったっけなァ。四、五杯で伸びちまったからな)

 溜息を一つ。自らの行く先を案じながら。

 その時、肩に軽い衝撃。擦れ違った者とぶつかったようだった。一瞬そちらへ鋭い視線を向けるが、相手がひ弱そうな女であることと、己にはもう何一つ後ろ盾がないことに気づき、すぐに「ゴメンな」と詫びを入れる。

「いえ、こちらの方こそ……」

 そう返す女。良く見れば、かなり若い。ひょっとすると成人にも届いていないかもしれない。金と暴力が蔓延るこの街では珍しく貧しげな風貌で、着ている服などは冬場に似合わぬ薄手の、それもところどころ解れたものだった。

 が、重光としては特別興味も無い。そのまま背を向け、

「あの……」

 か細い声に呼び止められた。先程の女である。

 うん? と振り返る重光に、彼女は一層細く、弱い声でこう付け足した。

 

「私を、養ってくれませんか」

 

「あー、ええっとだな……」

 理解するのに数秒を要した。

 身売りというやつの変則的なものだろうか? 確かに女の見てくれは悪いとは言い難い。むしろ美形だろう。いやさ、そう言う目で見ずとも余りにも儚げな女の姿をみると断るのも躊躇われる。

 しかし、こちらも状況が状況だ。明日の食事どころか今晩の飯すらも心もとない身に、さらに女一人を背負える余裕など無い。

 が。

「そう……ですよね。すみません、突然失礼なことを」

「あ……ま、待ってくれ」

 目を伏せて足早に立ち去ろうとする女を、呼び止めてしまった。

 女が、怪訝そうな顔で振り返る。

 白状すると、ほとんど反射だった。勿論食い扶持の宛ては相変わらず無いし、魔法の財布で持ち金が増えたなどという幸せな落ちがある訳ではない。

 だが、呼び止めた。呼び止めてしまった。

「……いいぜ」

 なぜだか、放っておけなくて。

「俺が、お前を養ってやる」

 

 

白烏警察署勤務の宇津木悟警部補は足取り重々しく事件現場へと向かっていた。

宇津木が所属しているのは刑事課強行係。つまり、彼が向かっている現場は遺体の発見された場所だという事になる。

「面倒な事件じゃなきゃいいんだが……」

 少し前に連絡してきた上司の口ぶりから察するに、そうではないのだろう。

 自宅から車を走らせること五分。早くも現場である港に着いた。こういう時に限れば、カタギが余り寄り付かない街は道が混まなくていい。

 車から降りると、すぐに部下が駆け寄ってくる。

 溜息を吐きながら、宇津木は忌々しげにいつもの言葉を口にした。

「被害者は?」

 

 男の胸には深々と短刀が突き刺さり、その表情は苦痛に歪んでいた。

 遺体は、頭から足許までぐっしょりと濡れていた。海に浮いていたところを発見されたという。

「死因は恐らく失血死。死亡時刻はまだ何とも言えません」

 部下からの報告に耳を傾けながら、宇津木は遺体の観察を続ける。

「発見者は誰だ」

「警邏中の警官二名です。最初は自殺者だと思っていたようですが……」

「引き揚げてみたら胸にナイフってわけか……あん? これは……」

 ためつすがめつ遺体を見ていると、ふと、あるものが目に留まった。

「どうなさいました?」

「ホトケの肩のとこ見てみろ。刺青が掘ってあんだろ」

「え?」

 宇津木が指差す先を部下が見てみると、なるほど確かに刺青が見える。龍の首に刀が突き刺さったデザイン。どちらかと言うと、欧米の若者が施す様なタトゥーに近いか。

「この刺青が、何か?」

「何かもクソもあるか。こいつぁ、東条組の組員が掘るもんだ」

 東条組――白烏街の近隣に根城を構えるヤクザ組織の名前だった。色々と手広く商っているらしく、勢力はなかなかのものだと聞く。

「面倒なことになったな。あの東条組が関わっているとなると……」

 ――捜査に支障が出ることは必至だ。

「いかがなさいますか、宇津木警部補」

「被害者が東条組の一員であることは他に漏らすな。このヤマの捜査は慎重に当たれ」

「はっ!」

 敬礼する部下。こんなに優秀で従順な部下はそう得られまい。そこだけは恵まれた、と宇津木は思う。

「そうだな、とりあえずは――」

 よっこらせと屈めていた身体を起き上がらせる。歳を取ったものだ。

「――身元の確認が最優先だ」

「わかりました。他に何か?」

「そうだな……」

 捜査の責任者として考えを巡らせる宇津木。ものを考える時の癖で掌を顎に持っていくと、じょりじょりとした不精髭の感触が伝わってくる。

「東条組の内情について調べろ。特に、最近になって組を抜けた奴がいたら、そいつを徹底的に調べ上げるんだ」

 

 検死の結果は半日で出た。

 被害者の名前は霧峰領治。三〇歳。東条組の副幹部。

 直接の死因は胸元に刺さったナイフ。

 そして、ナイフから検出された指紋の主は、高橋重光と言う。