十二月三十一日のアストレア

壁面の窓からは細雪が見え始めていた。

「ありがとうございました、来年もまたよろしくお願いします」

最後に残っていた客が小憩を終え、店長の灰瀬(はいせ)(かおる)が頭を下げる。

「はぁ、これで今年も終わりかあ」

「そうですね」

 テーブルの上を片付けながら、店員の静木(しずき)有水(ゆみ)が小さく応える。

 「今年もいろいろありましたね」

 静木はテーブルの上を拭き終わり布巾を壁にかけると、椅子に腰掛け小さく微笑む。

 喫茶店「アストレア」は三年前、閑静な住宅街の一角にできた、こぢんまりとしたカフェである。都会の喧騒からほど遠い場所に立地しているここは、静寂な雰囲気を好む若者たちにとって絶好の憩いの場であり、小規模ながらも確実にリピーターを増やしていた。灰瀬は清冽な水の産地として有名な場所に生まれ、幼い頃から自分の喫茶店を持つのが夢だった。今では一店舗の店長として、その経営に奔走している。アストレア、と言う名前も天秤座生まれの彼が思い入れを込めて名付けたものであった。

 アンティーク物の振り子時計の鐘が店内に鳴り響く。十二月三十一日午後七時、アストレアは今年の営業を終わろうとしていた。世間は来る年末年始に向け動き始め、普段は穏やかな街並みも流石に今日ばかりは少しばかり忙しなかったように思う。

 静木が店内の清掃終了を確認し、シャッターを下ろそうとした時だった。

「あの……」

 ガラス戸のすぐ前に、その女はいた。少しやつれ気味だっただろうか。長く下ろした黒髪に、目立たない色の薄い服。

「終わっちゃいましたか……?」

とそばにいた静木に小さく尋ねる。

静木は驚きのあまり後ずさり、思わず足場に置いてあった植物の鉢に躓いてしまった。

「は、灰瀬さん……」

「どうかした?」

「ちょうど今、お一人いらっしゃったんですけど…」

「こんな時間に……?」

 灰瀬が入口まで様子を見に来ると、そこには確かに女が一人立っていた。この寒空の下せっかく来てくれたんだ、と感じた灰瀬は

「何かの縁だし、ゆっくりしていってもらおうか」

と女を中に迎えることにした。

 ちらと時計を確認する。既に七時を三分ほど過ぎているが完全に店の商売道具をしまったわけではなく、まだ客の一人くらいを出迎える余裕はあった。灰瀬は閉じかけたシャッターを急いであげて、

「店内散らかってますけど、ちょっとしたものでよければ」

と女に呼びかけた。

「いいんですか?ありがとうございます」

そういうとやや俯き気味だった女は顔を上げ

若干申し訳なさそうに店内へと入った。

 幸い簡単な喫茶メニューを作れるほどの材料は残っていたため、灰瀬はあり合わせのものを作ることができた。あり合わせといってもフィナンシェ、エスプレッソコーヒーといった立派な代物には違いなかったが。

「店長、静木さん。店の模様替えどうしますか?」

 厨房の奥から聞こえてきた声は()(かみ)解子(ときこ)のものだった。灰瀬、静木とともにこの店で働いている従業員である。

「新しく買った電飾とかいい感じなんですよね」

と、美神が段ボール箱を抱えて物資置き場から出てきた時だった。

「あれ……?」

「ああ、美神さん。それカウンターの真上あたりに飾ろうと思うんだけど…」

「店長、あのお客さん……今いらしたんですか?」

 声に出ないように、美神は灰瀬に問いかけた。

「あ、言ってなかったか、ごめん。閉めようとしたらうちの前に立ってたみたいでさ。」

と慌てて弁明すると、美神は客の女を遠い目で見やりながら、こう呟いた。

「……年の終わりに、随分えらい人が来たんですね」

「ん? どういう事?」

「ふふ、なんでもないですよ。それよりちょっと寒くなってきたし、暖房強くしませんか?」

「あ、じゃあ私入れてきます!」

そういうと静木はエアコンの温度を調節しに足早に厨房を駆け抜けた。

 灰瀬は女の元に寄ると、

「ずいぶん薄着ですね。暖房強くしましたから」

と話しかけた。残っていたコーヒーを飲み干すと、

「すみませんわざわざ……。ところで今、ここ修繕中か何かなんですか?」

 周りを見回して気付いたのか、女は灰瀬にこう尋ねた。

「ええ、来年に向けて修繕も兼ねた模様替えしようと思ってまして」

「なるほど、それはいい事ですね。よかったら私、手伝ってもいいですか?私これでもインテリアコーディネーターなんです」

「え、本当ですか?丁度よかった、ここ三人でやってるんですけど中々内装決まらなくて……」

「美味しかったコーヒーのお礼ですから」

そういうと女は立ち上がり、灰瀬に案内され装飾品のおいてある物資置き場に入っていった。天井近くに設けられた薄型の液晶テレビが、つかの間のニュースを報じていた。

『……倒れていた男性については、妻の令英(よしえ)さんが事情を知っているものとし、警察は行方を追っています。続いてはお天気です。各地で降っている雪は、のち所々で雨に……』

 

 

 

 「うわぁ、見違えるようですね……」

 相路(あいろ)と名乗るその女の知恵を借りたアストレアの内装は、今までとはまた違った輝きを見せていた。

「新しい配置も新鮮です。業者に頼んだらいくらついていたことか…はは。ありがとうございました、相路さん」

「ありがとうございました」

 ともに二人を手伝った静木と美神も、声をそろえて陳謝した。

「こちらこそありがとう。私もこの店のスタッフの気分を味わえて楽しかったわ」

 秀逸なデザインを築き上げた相路は作業を終え立ち上がると、疲れを宥めるように手を上にあげ大きくのびをした。

「ところで電話、借りてもいいかしら?」

「どうぞ、右奥の突き当りにありますよ」

 店内の固定電話を指さすと、灰瀬ら三人は床に散乱している道具類を片付ける作業に入る。

 相路は固定電話の前まで歩を運ぶと、作業の為に結んでいた後ろ髪を解き、受話器に手をかけた。

「黒電話か……懐かしいわ」

そう呟きながら相路はダイヤルを回しはじめた。

 ……呼び出し音が、三回。しかしてその呼び出し先は

 

「……令英か」

 

……父親だった。

「……お前が、やったのか?」

「違うわ。あの人が勝手に転んだだけ、よ」

 受話器の両側で、暫時の沈黙が流れる。先にその沈黙を破ってのは父親だった。

「元はといえば、あの男の本性を見抜けなかった私の責任だ。匿うぞ」

 

「相路さん、すごかったなあ」

「本当ですね……流石コーディネーター」

 灰瀬と静木が感心していたとき、美神は心ここにあらず、といった顔をしていた。

「どうかしました?美神さん」

 美神は、どうやら電話をしている相路の方を見ているようだった。

「……いえ。ただ、等しく慈しむのも人間の役目かな、って」

 美神が、その口を開く。

「相路さんに、何かお礼代わりにできること、ないかなって思ってました」

 その言葉に、二人も首肯する。

「どうしようか……」

 三人は恩返しのため思考を巡らしていた。

 

「お前の事は、父さんが守るぞ」

「……ありがとう。でも、もういいのよ。ちゃんと警察に言って、事情を話すから」

 

 

 確かにあの人は、制約が多かった。

 でも本当に私は、何もしなかった。

 縁側のそばに、壺が割れていた。

 段差の下に、あの人が血を流して倒れていて……。

 気が付いたら、夢中で走っていた。

 すぐに救急車を呼んでいれば、あの人は助かっていただろうか。

 逃げてきた私は、何の罪になるんだろう。

 でも……もう逃げたりしないわ。

 少しだけ勇気が必要なだけ。少しそっとしておいて欲しいだけなの……。

 

 

 

 既に雪は雨に変わり、街を濡らしていた。

 相路は受話器を置くと、ふとテレビの画面に目を向けた。

『今日夕方、神崎区の相路(つかさ)さん

の自宅で男性が倒れており…』

 

 もう少し……。

 もう少しでいいのに……!

 

 やりきれない思いを抱えた相路は会計の場

所まで小走りで駆けると、震える声で

「すみません、そろそろ行くので」

と、菓子の代金を払おうとする。

「え! 結構ですよ。むしろこっちが内装代をお支払いしなくちゃいけないくらいで……」

「だめよ、ちゃんと払わせて」

 相路はもう自分の感情に嘘をつきたくなかった。

「えぇ…どうしようかな」

灰瀬が考えあぐねていると、相路の頭に何かが囁く言葉が聞こえたような気がした。

 

 逃げて、しまおうか…

 

 父に車で、迎えに来てもらえばいい。どうせ今までだってずっと家の中にいた。それが

実家に変わるだけじゃないか。今までと変わらない生活が続くだけだ……。

 

「あの…」

「ふわっ!?」

静木と美神の呼びかけに、神経を張り巡らしていた相路の背中がビクッと跳ねる。

「ご……ごめんなさい、そんなに驚かれると思わなくて……」

慌てて静木が詫びを入れた。申し訳なさそうに、美神も一通の封筒を手渡す。

「これ……良かったら」

「美神さん……どうしたんですか、これ」

そこには「お食事券 次回ご来店時、お好きな注文を無償で提供いたします 無期限 アストレアスタッフ一同」と書かれたカードが入っていた。

「お代頂くのも申し訳ないし……」

そういうと、美神は相路に心からの笑顔を見せた。それはまるで、何かを信じきっているような純粋な顔つきだった。

「それはいいですね、美神さん。どうです。次にアストレアに来たとき、使って頂けたらこちらも嬉しいですし。今日手伝ってもらったお礼にご馳走しますから、いつかまた来てください。……約束ですよ?」

 そう言われたとき、相路の中で何かが吹っ切れた気がした。

「初めにいらした時より、顔が明るくなりましたね」

と美神が付け加える。

「また来年も、よろしくお願いしますね」

と締めたのは静木だった。

「そうね、そうよね…また来なくちゃ」

そう絞り出す相路は笑顔を浮かべながらも、一筋の涙が頬を伝っていた。

 店を出る際に、相路は大きな会釈を一つした。

「今年も終わりますね」

それが、彼女が聞いた最後の言葉だった。

 夜は九時を回っていた。アストレアのシャッターを閉めるとき、美神は一人こう思った。

 あの人なら、必ず帰ってくると。

 

 最寄駅までの並木道。小夜時雨の中を傘も差さずに歩く女がいた。その女はロータリーまでたどり着くと、「空車」の文字が光るタクシーに乗りこむ。

「どちらまで行かれますか?」

女の言葉は決まっていた。

 あの優しい方たちの、小さな約束に応えるために。

 

「神崎警察署に行ってください」