第二話「メランコリック・ホリデー」

1.

 

「そうだ。散歩しよう」

 それは唐突な提案だった。

「はぁ?」

 さっきまで読んでいた本を唐突に閉じて机の上に放り投げた明智さんに、僕は何言ってんだコイツと思いながら何言ってんだコイツという視線を向けた。何言ってんだコイツ。大事なことなので三回目。

 時計を見れば時刻は一時を回ったくらい。昼食後の散歩には良いかもしれない。

 問題はただ一つ。

「なんであなたの思いつきに僕が付き合わなくちゃいけないんですか?」

 カレンダーを見れば今日の日付の文字は赤。言うまでもなく休日。日曜日だ。

 篠原家の一件後、僕の最後の砦である休日出勤拒否は藁の家であったことが発覚してしまった。とあればもはや狼に吹き飛ばされるのは運命。憐れな子豚はつまり僕……。

 肩を落としながら家を出る際、妹に変なものを見るような目を向けられたのを思い出す。いや、アイツはいつも兄であるこの僕に対して敬意という感情が欠如しているんだけれども。

 ということで、わざわざこうして明智さんの家まで来て怠惰で無頓着な迷惑探偵略して迷探偵のお世話をして上げているわけだが……これで残業代どころか基本給がビタ一文もないあたり、出るとこ出れば損害賠償で大分ふんだくれるのではないだろうか。訴訟ビジネス、良いかもしれない。

 などと頭の中で今後の計画を練っていると、明智さんはグッとサムズアップし一言。

「書を捨てよ、町へ出よう」

「あなたがそんな高尚な思想持っているわけがないじゃないですか……」

 素直に退屈だと言え退屈だと。

 しかし悲しいかな、今の僕は明智さんという貴族もとい奇族の召使いなのだ。それはかつて、僕と彼女の間で交わされたある契約が原因なのだが……その発端となる事件については、まあ追々触れていくとしよう。

 ともかく。

「なにか行く宛てはあるんですか?」

 さすがに目的もなにもない彷徨に付き合ってやれるほど僕は寛大ではない。堪忍袋は有限だ。某青いタヌキのロボットが持っている都合の良い道具でもそこは変わらない。緒が切れたら戦争だ。

 が、そこは明智さん。心配するなとでも言うようにしたり顔でふふんと頷いてみせる。期待通りの反応だ。あまりの頼もしさに殺意が芽生える。

「実はこの間、一人で散歩をしていたらね」

「大丈夫ですか? 警察のお世話にはなっていませんか?」

「小林くんは時々辛辣だよね」

 失敬な。当たり前の心配をしているだけだ。なによりこんな異常者と関わっていたことが露見したら僕の世間体やひいては就職に響く。もし官吏のご厄介になっていたらこの屋敷にある僕の痕跡を埃一つ髪一本に至るまで抹消しなくてはいけないのだ。

 ちなみに、詳しく聞けば僕が学校でいなかったために雛形さんという明智さんの高校の友人(友人……?)で現役の女性警官にお供をさせていたらしい。ある意味では警官のお世話になっていたわけだ。

 僕が学校に行っているということは雛形さんも業務があるはずだけれども……以前からこの素っ頓狂探偵と交友関係(交友……?)がある彼女は、どうやら警察署内でも『明智係』みたいな扱いを受けているらしい。明智さんがらみの厄介ごとがあると、もれなく雛形さんにお鉢が回る体制が警察組織内では完成しているという。

『いい、小林くん。私みたいにはなっちゃダメよ……?』

 以前たまたま二人きりになったとき、雛形さんは諭すように僕に言ってきたことを思い出す。

『たった一度の恩義のために、切るべき縁をずるずる繋げたまま進学、そして卒業……。結果、同僚から敬遠されるわ先輩からは面倒な役目押しつけられるわ後輩からは遠巻きにひそひそと噂をされるわそれらのせいで出会いもないわ……婚期が、婚期が……!』

 涙ながらの彼女の言葉が当時の僕にはよく分からなかったけど、今は実感を以てうなずける。まともな人生を歩むためには、明智さんとの縁はどこかで切らなくてはならない。

 閑話休題。

「で、一人で散歩していたらなんですって?」

「うん。気まぐれでいつもは余り行かないところを歩いてみたらね、中々良さげなカフェを見つけたんだ」

「へぇ、明智さんがそんなこと言うなんて珍しいですね」

 思わず感嘆の声を上げる。

 明智さんの言う良さげとか信用ならない……と言いたいところだが、残念ながらこの人の感性は意外とまともというか、むしろセンスが良い部類に入る。見ての通り家が裕福だったためかもしれない。なんというか、肥えている。

「それで、入ったんですか?」

「それが生憎定休日でねぇ。それ以降弥子は捕まらないし、ならどうせだから最初は我が優秀な助手とともに行こうかなと思ったんだよ」

「それは殊勝な心がけで……」

 殊勝すぎてビックリだ。傍若無人な明智さんがこんな風にわざわざ僕を労おうとするだなんて。明日は槍か、隕石か……アルマゲドン……。

「さ、そうと決まったら出発だ。早く支度をしたまえよ」

「いや、僕は別に賛同も何も言ってないんですけど……」

 最後の抵抗もどこ吹く風。いそいそと上着に袖を通す明智さんを見つめながら、僕は手に持っていたヤカンをシンクに置く。やれやれ、コーヒーならちょうど今淹れようとしていたところだったんだけれども。

 これでなんかろくなことが起きなかったらさっきの訴訟ビジネスプランを実行に移してやるという堅い決意とともに、エプロンの結び目をほどいた。

 

2.

 

「『Une femme solitaire』、ですか……?」

 明智さんに連れてこられたのは、湯橋市の北の方の地区だった。明智さんの邸宅や僕の学校があるつばめヶ丘からは、確かに距離がある。

 件の店は、外から見ると明るい印象を受けた。朱い瓦屋根に白い漆喰の壁。入り口と思しきドアの横には、紫色の小さな花が咲き誇るプランター。

「フランス語だよ。とにかく入ろうぜ」

 見たこともないような文字列が並んだ看板に眉を顰めていると、明智さんが言いながら店に入ってしまう。ドアには“OUVERT”の文字が書かれた看板が垂れ下がっていた。これもフランス語だろうか。

 明智さんに続いて入った店内は、外観に反して落ち着いた雰囲気だ。シックな色合いの床と、木目調の壁。天井では大きなファンが三つほど、緩く回転している。カウンターの後ろには色も形も様々な酒瓶。よくあるようなケーキの陳列棚もなく、冷蔵庫は厨房に大きなものが一個とその隣に一回り小さい冷凍庫っぽいのがあるだけだ。全体的な印象はカフェというよりもむしろバーに近いかもしれない。まあ僕はバーに行ったことはないのだけれども。

 僕ら以外には客はいないようだった。まあ、このあたりは人通りも少ないし、さもありなんだ。

 ほうほうと店内を見渡していると、床に何かが落ちるような音が聞こえた。

 驚いてそちらを見ると、マスターと思しき中年の男性が慌ててトレイを拾っている。

「ん、君がここの店長かい? 今、開店中だよね」

「あっ、さ、左様でございます! そちらの席へどうぞ!」

 明智さんが何様な態度で質問をすると、マスターは少しうわずった声を上げながら一番奥の窓側の席を手で示した。どうやらここのマスターは上がり性っぽいようだ。いや、それは接客業として致命的だと思うんだけど。

 とにかく案内された席へ座ると、マスターがメニュー表と水を持ってきてくれた。

「コーヒーでもこんな種類あるんですね……」

「豆の品種だろう。コーヒー豆の風味は農場はもちろんだけど、地域によってもある程度個性が出るからね」

 とりあえず目についたやつを注文する。そしたら最悪なことに明智さんも被せてきた。わざわざカフェまで来てなんでこの人と同じモノを飲まなきゃならないんだ。

 憮然としていると、明智さんは明智さんで今度はメニュー表の別のページを開いていた。その中の写真の一つに、生っ白くてほっそりとした指が乗る。

「このアイスはあるかい?」

「あーっと……そちらはただいま品切れでございまして……」

「ふぅん。じゃあ、こっちのチョコレートアイスをお願い」

「かッ、……しこまりました!」

 とうとうマスターが噛んだ。この店がガラガラな理由、立地以外にも色々とありそうだ。

 落ち着かない雰囲気で厨房に引っ込んだマスターを横目に、僕はポケットからスマホを取り出した。電子書籍アプリを開き、以前読み途中だった本を開く。わざわざバッグを持たなくてもスマホがあれば大抵のことはできる。なんて便利な情報社会。

「そんなので頭に入ってくるのかい?」

 対する明智さんはといえば肩下げ鞄からわざわざ重そうなブロック本を取り出して開き始める。実に非効率極まりない。きっと財布の中身をポイントカードや現金でパンパンにする手合いだろう。

「まあ僕は明智さんに比べて若いですからね、脳の吸収率が違うんですよ」

「ほう?」

 適当にしっしとあしらうと可笑しそうな声を上げられた。癪だ。なんだコイツ。

 そうしてしばらくすると、マスターが置くからのそのそとやってきた。コーヒーを机の上に置いてくれるが、ソーサーの端っこの方を持っているものだから変に力が入っててカタカタカタカタ音が鳴る。これは不安だ。

「ああそうだ、失礼。いいだろうか?」

 一礼して去ろうとするマスターの背中に、明智さんがカップを口に近づけながら声を掛ける。

「はい、なんでございましょう?」

「いや、なんてことはない。他愛のない質問でね。店先のパンジーが随分と鮮やかに咲いているものだったから……あれはどちらで苗を?」

「あー……いえ、あれは私が種から育てたものでございます。園芸が趣味でして」

「なるほど。いやはや、あのように見事な花が咲くようになるには大層な根気と経験が必要だろうね。感服するよ。庭師に雇いたかった」

「ありがとうございます……」

 明智さんの傍若無人な発言にも恭しく頭を下げられるところは、このマスターの美点かも知れない。

 それで気になったことは確認し終えたのか、今度は明智さんも去って行くマスターを止めなかった。それにしてもこの頓珍漢に花を愛でる心があったとは……。今世紀最大の驚きと感動かも知れない。ハリウッドなんて目じゃないや。

 まるで心を知って最後のメモリーチップをこの世から消すために溶鉱炉の中へサムズアップをしながら沈んでいく殺戮マシーンを見るような面持ちで明智さんの顔を見つめていたら、コーヒーを一口だけ飲んだ明智さんと目が合った。

 彼女の指が、今度は僕に向く。

「……なんで君がそれ食べてるの?」

「はい?」

 言いながら、僕はマスターが一緒に持ってきてくれたチョコケーキをフォークで切り分け口に運んだ。うん、冷たくておいしい。皿が常温なのは減点ポイントだけど。

 ケーキの類いは解けたりしてしまうものも多いから、出す皿も一緒に冷やしておくのが一般的なのだ。一年前にバイトしていたところでみっちり仕込まれたから知ってる。店長は元気かなぁ……。僕は今、奴隷をしています。

 普段あれだけクソブラックな契約の下でお世話して上げているんだからこれぐらいの待遇は良かろうと思っていたが、明智さんがドブに捨てられた子犬みたいな顔をし始めたので仕方なく半分は譲ることにした。フォークは一つしかないから念入りにウェットティッシュで拭く。間接キスとか言うのは余り気にしない質だけど、この自称名探偵のニートとだけはゴメンだ。

 結局、明智さんは「アルコールの味と匂いがする……」とかぶつくさ言いながらも平らげた。

 かと思うと、おもむろにふらっと立ち上がる。

「どうしたんですか?」

「お手洗い」

 ひらひらと手を振りながら席を立つ明智さん。途中、カウンターの方によって慌てて飛び出てきたマスターに洗面室の場所を尋ねながら示された方向へ消えていった。うん、やはり明智さんがいないと清々するなぁ。

 と、改めて椅子に座り直すと、明智さんのカップが見えた。ほとんど飲んでない。

 出かける前にそんなに水を飲んでる様子もなかったし、ましてや食事は僕が作っているのだ。大の方もないとは思うんだけれども。

 首をひねりながら待っていると、思ったよりも早く明智さんが帰ってきた。でも、やはりコーヒーには口をつけない。

「飲まないんですか?」

「うん。もう十分だ」

 怪訝に思って問うと、彼女は興味なさげにそっぽを向いて答えた。そういう風に飽きっぽくお金を無駄遣いするくせに、でも余裕で生活維持できている……何故だ。神は何故、この人に地位と権力を与えたもうた……?

「――そろそろかな。小林くん」

 そうしてしばらく窓の外を見ていた明智さんだったが、不意にちょちょいと手でこまねいてきた。

「……とりあえず、合図をしたらすぐに動けるようにだけはしておいてくれ。この場では君だけが頼りだからね」

「……? はい」

 顔を寄せたら耳打ちしてきたので、とりあえず頷く。けれども意味が分からない。僕だけが頼り? どうして動けるようにする必要がある?

 訳も分からないままとにかく座る方向を斜に向ける。

 理由はすぐに知れた。

「あれ。この音って……」

 ふと、外から聞こえてきた音に顔を上げる。

 特徴的な、耳につく低い警報音。これは、パトカーの音だ。

 全く同時にそれが聞こえたらしい明智さんが、歩そりと呟く。

「ん、来たね」

 ドタン、バタン! と。

 事故でもあったのだろうかと思った矢先に、何かが崩れて倒れる音が聞こえた。

 驚いてそちらの方を見れば、あのマスターが鬼気迫る表情で出入り口の方へ走っている。

「今だ! 取り押さえてくれ!」

 ぴしゃりとはたくように、明智さんが叫んだ。身体が動き出したのはほとんど反射の領域だ。幸い、運動不足そうなマスターよりも僕の方が速い。

 彼がドアノブに手をかけ、今まさに外に出ようと扉を開けるその瞬間だった。

 間一髪で僕の足がマスターのそれを絡め取る。

「ぬわッ!?」

 間抜けな悲鳴とともに地面に倒れるマスターの、その背中を逃がすまじと踏みつけるまでが、一呼吸。肩甲骨の間のあたりだ。これでもう立ち上がれない。

 まるで悪役か何かのような絵面になってしまったなぁなどと思いながらもまあ四天王像も悪鬼を踏みつけているし良いか……と気を取り直したあたりで、今度は外側から出入り口が開いた。

 そこには、マスターを踏みつける僕を見て目を丸くしている警官と、ただ一人事情を察したのか額を押さえて溜息をついている雛形さんの姿があった。

 

3.

                                        

「君は若くて吸収力があることを自認する割には、一つ一つのものごとへの向き合い方がまだまだ浅いね。まあそれもまた『若い』ということなのかも知れないけど」

 したり顔で鼻高々とそんなありがたいお言葉をくれるのは我らが明智さんだ。今世紀最高にむかつく。

 視線を前に向けると警察が店内を調べていた。僕らも軽い事情聴取を受け終わったところだ。

「……いつです?」

「ん?」

「いつからあの『マスター』がマスターじゃないと気づいていたんですか?」

 そう、あのカフェの店主にしては挙動不審すぎる男性は、それもそのはずで実はマスターではなかったのだ。ついでに言えば、ここの店員ですらなかった。

 では、本当のマスターはどこか?

 答えは、正気を疑うような場所。

 厨房に一台だけあった冷凍庫。あの中に、死体になった本当のマスターが押し込められていた。

「確信したのは店前の花について訊いた時だよ」

「花?」

「大事なことは文字の中だけにあるんじゃないんだぜ? もっと日常に目を向けて観察眼を研ぎ澄ましたまえよ」

「余計なお世話ですが」

「あれはパンジーじゃなくてビオラだ。この二種は非常に似ているが、ビオラの方が花弁が小さい」

 一言以上に余計なことを口走りながらも、明智さんはそう教えてくれた。

「あとはアイスは売り切れと言っていたのに、先程カウンターから厨房を覗いたら未開封のアイスの箱が床に散乱していた。今思えば、客は他に一人もいないのにわざわざカウンターから一番離れた席に通したのは、厨房を見られたくなかったからだろうね。私たちが入店してきたから慌てて冷凍庫の中を掻き出して死体を詰めたんだろうさ」

 それは同時に、あの男性の『マスター』が本当のマスターを殺した殺人犯であることを表していた。

「あとは入れたコーヒー。こんなに立派な店を構えている人間が出す味じゃない」

 顔を顰めながら酷評する明智さん。

 飲んでた時は余り気にならなかったけど、言われてみれば確かになんだか大味で粉っぽい気がした。大分めちゃくちゃな淹れ方や抽出をしたのだろう。

「おかしいなと思ったのは店内に入ったときだけどね」

「挙動不審だったことですか?」

「いや、別に。そうじゃなくて、店名さ」

 言いながら、彼女は人差し指を上に向けた。

「Une femme solitaire――直訳すると『孤独な女』。それで恐らく、ここのマスターは独身女性だろうと踏んでいたのだけれど実際に私たちを出迎えたのは冴えないおっさんだった」

 最高に癪に障るしたり顔で、明智さんはこちらに微笑む。

「小林くんはもっと『疑う』力を身につけた方が良い」

「明智さんの神経ならいつも疑ってますが」

「違う違う。常識や先入観に捕らわれないことだ。店名はしかたがない。だが『カフェに入って出迎えてくれたから、この人はマスターだろう』と思い込んでしまっては、面白いぐらいにぶちまけていてくれた数々の不審点にもほとんど気が行かなくなってしまう」

「……」

「君は、私の助手なんだぜ? 私にもしものことがあれば、代役もこなしてくれないとなぁ。まだまだ免許は皆伝できないなぁ。でもなぁ。私は名探偵だからなぁ。まあ一朝一夕には務まらないだろうけどなぁ」

「それ以上口を開いたら今度は明智さんに足かけしますよ」

「それは失礼」

 調子に乗りはじめたのでドスを利かせておくが、どこ吹く風と言わんばかりにケロッとした反応が返ってきた。

 とは言えこのまま言いくるめられるのもなんだか面白くない。僕がむくれていると明智さんがバンバン背中を叩きながら「まあまずいコーヒー飲んじまったし帰ったら小林くんのいつものを淹れてくれよー!」とか抜かし始める。

 こめかみを押さえつつ、ついでに明智さんの顔面も掴みつつ、僕は溜息をつく。

 ああ、なんて憂鬱(メランコリツク)な休日なんだろう、と。