第五話 偽名

「大分、遠くまで来ちゃいましたね」

「ああ。今日はこの辺りで夜を明かすか」

 二人が辿り着いたのは、隣街の港の倉庫街。隣とは言っても、白烏街からはかなり離れた場所だった。

「にしても、まさか高倉が裏切るとはな……」

「そのことなんですけど」

 独りごちる重光に、有希が封筒を差し出す。

「なんだ、これ」

「バイクの後ろに貼ってあったんです。多分、高倉さんが……」

 手に取って見てみれば、見覚えのある字で「愚かな友人へ」と書いてある。

「中身は……新聞の切り抜きと取材用のノート? そうか、だからアイツ、俺たちが来ても中に入れなかったんだ」

 警察が来ると分かっていれば、中に入れることはできない。万一隠しおおせたとしても、いずれ露見すれば今後の彼の立場にも影響する。

 敢えて表面上は警察に協力し、重光たちに必要な情報を渡すのにはこれが最適だったのだろう。

「俺たちを売ったわけじゃなかったんだな……確かに、それならばハーレーにチェーンがかかってなかったのも頷ける。借りが出来ちまった」

 重光は悄然と、しかしどこか嬉しそうに言った。

「それで、中身はなんて?」

 有希が緊張した様子で尋ねる。対する重光は暫らくパラパラとページを捲っていたが、やがて諦めたように首を横に振った。

「色々書いてはあるが、暗くてよく読めん。とりあえずこれは後回しだ。それよりも、先にやるべきことがあるしな」

「え、何です?」

 首を傾げる有希に、重光は呆れた様な視線を投げかける。

「俺たちの寝床探しだよ」

 

 日付を跨ぎながら、ハーレーの上の二人は平穏に過ごせる場を求めた。

 さすがに港町と言うだけあり、すぐそばの海では一筋のハーバーライトが回りながら漁船を監視している。

 波止場まで来たところで「海抜三メートル」の看板を見つけた。その横にハーレーを停め街へ繰り出す。

「深夜の海って、幻想的ですね」

 有希が言う。

 深黒の空には十六夜の月が顔を出し、煌々と海を照らしていた。

「雲が無いから尚更だな」

 重光は胸ポケットから煙草を取り出した。

「また吸うんですか? 肺、悪くしても知りませんよ」

「いくら吸おうが俺の勝手だろ」

 指摘され、怒るわけでもなくそう返した。

 中身を一本取り出し、箱を有希に掛けた上着へ戻す。

大柄な重光の上着は、やっと二〇に至ったばかりの女には大きすぎて、両手が袖をつかむ形となっていた。が、結果的に手袋代わりになっているので満更でもないらしい。

 気付けば、すっかり街の真ん中にいた。海岸沿いとは裏腹に、人の活気を表したようなビル街が、ネオン灯を多く侍らせている。

「……ここでいいか」

 ふと、ある建物の前で重光が足を止めた。

 甘さを超えて、もはや悪趣味なネオンで彩られた建物。入口の上にもやはりキツイ色遣いで「HOTEL」の文字が浮かび上がっている。

 業界ではブティックホテルなどと小洒落た呼び名を使うそうだが、ありていに言ってしまえばラブホテルだ。

「え……こ、ここって――」

「勘違いすんな。ここなら偽名を使ってもバレにくいし、ベッドもある」

「あ! ちょっと待ってください!」

 そう言ってさっさとホテルの中へ入っていく重光を、有希は慌てて追いかけた。

 

 中に入ってみると、外観とは裏腹に落ち着いた感じがした。腐っても宿泊施設、という事なのだろうか。

 フロントカウンターにはウィンドーの上半分に仕切りが挟まれており、従業員から客の顔が見えないようになっていた。

なるほど、これならば重光たちがここに寄ったという事もバレまい。

実家に寄った時に机という机を漁って財布の中身を補充しておいたのも幸いだった。この分なら、当分は凌げるだろう。

「チェックインを済ませてくるから、適当に名前考えろ」

 言いながら、重光はズボンの右ポケットから紙片とペンを出した。

 それらを受け取った有希は、暫く決めあぐねていたが、やがて漢字を数個書き、重光へ紙片を返した。

 今度は、その紙片をもって重光が名簿に名前を記入する。この手の施設はそもそも名簿が無いことが多いが、ここにはあった。

 自分の欄には昔、仕事で使っていた偽名の内の一つを選んで書き、有希の欄には先程受け取った紙片に書かれた文字を書き写す。

「――様と、東条千鶴様ですね。ご案内いたします」

 従業員が読み上げた際、あることに気付く。

(『東条』?)

 不穏な姓に一瞬引っ掛かるものがあったが、先へ進む案内の係に急かされ、思考は打ち切られる。

(偶然か)

 それ以上は深く考えず、いつの間にか隣をすり抜けていった有希の背に続いて歩を進めた。

 

 

 重光と有希がラブホテルに入っていた頃。

 白烏警察署では、宇津木がデスクの上に並べられた資料を睨みつけていた。

(首無し遺体には、血液が一滴残らず搾り取られていたという)

 通常、そのような芸当ができるのは高度な医療知識を持ち合わせた者のみだ。

 では、はたして重光に可能だったのか?

 経歴を洗ってみたが、彼自身が医学を学んだという公的記録は存在しなかった。

あるいはあの同行者か?

否。一般的に、医師が一人前と認められるのはどんなに早くても三〇を超えたあたりだ。あんな少女から女への階段を昇りきってもいないような歳でそれほどの技術を習得しているとは考えづらい。

気がかりと言えば、仁科からの報告が遅い。本来ならば電話が鳴るはずの時間からもう三時間は経っている。

(確かに、今回の遺体は特殊だからな……手間取っているのか?)

 思考を巡らせていると、ちょうど業務用電話機のベルが高らかに鳴った。

 すわ仁科か、と受話器を取る。

「もしもし、宇津木だが」

『警部補、重要なお知らせがあります』

 違った。部下の一人である青年の声が聞こえた。

 しかし……不自然に声のトーンが低い。

「何だ、どうした?」

 訝しげに尋ねる宇津木に、青年はその情報を告げた。

『現場から、鑑識課のペンが見つかりました。白烏警察は、仁科縁里を重要参考人として勾留しました』

 

 

 ザァ……という、タイルが水を弾く音がバスルームから響く中、重光は一人、部屋に備え付けられた机に向かっていた。

 机上に広げられているのは、高倉から得た資料の数々。

(『東条組組員連続殺人事件について』、か)

 ノートの表紙を捲ると、高倉の字で事件についての情報がびっしりと書き込まれていた。

(一人目の被害者・霧峰領治。二人目は未だ身元不明……)

 時折図が交えてあるページをパラパラと読み進めていく。

 と、ある文章で手が止まった。

《――独自に調査したところ、東条組団長・東条重雄には実の娘が存在し――》

 重光の脳裡に、有希の姿がよぎる。

 まさかな、と思いつつ続きに目を通そうとしたその時だった。

「お風呂上がりましたよ」

 と、バスルームから有希が出てきた。

「おう、ありがとよ――ッ!?

 振り返って、思わず目を見開く。

 風呂から上がってきた有希は、バスローブ姿だった。

 淡い桃色の布地から覗く肌はほんのりと上気しており、慎ましやかな胸元には薄く汗が浮いている。湿った横髪が頬にうなじに張り付き、言い様の無い艶かしさを醸し出していた。

 目のやり場に困り、視線をわきに逸らすが、当の有希は「?」と首を傾げている。完全に自覚が無い。

「……じゃあ、俺も風呂に入って来るから、お前はもう寝てろ」

「はい! おやすみなさい」

 さっぱりしたおかげで機嫌が良いのか、笑顔で手を振ってくる有希を背に、重光はふらふらとバスルームへ向かった。

 

 シャワーを浴びて心を鎮めた重光に、再び試練が訪れていた。

 即ち、寝床である。

「……」

 呆然とした重光の視線の先には、やや大きめのダブルベッド。そして、その上で寝息を立てている有希の姿があった。

 余程疲れていたのだろう。掛布団の上に身を投げ出して寝ている。

 それがまずかった。

 寝返りを打つ際に帯が緩んでしまったのか、バスローブの前面がかなり際どい位置まで開きかかっており、呼吸に合わせて彼女の胸元が上下するのがありありと見えてしまっている。その上、軽く曲げられた足下からは、眩いばかりの白い太腿が大胆に晒されていた。

「…………」

 ベッドから視線を逸らし、無言でソファーに横たわる重光。

 

 柔らかそうに見えたが、存外に固かった。