第十二話 決着、因縁の断絶

 白烏街の埠頭。

 空模様こそ怪しいものの、それでも八時を回ればさすがに余りにも寒すぎるということは無くなる。海際となれば尚更だ。

 大分靄も引いた中、重光は静かに立っていた。――重雄と決着をつけるために、だ。

 ここに来るまでにわざと自分たちの姿を晒して組の人間が追ってきやすいように仕組んである。昨晩のこともあり、少しばかり寝不足気味だが、コンディションもさして問題は無い。

 ……千鶴は近くの物陰に隠れさせておいた。万が一のことがあったら警察に駆け込み、重雄の犯行を証言するように既に言い含めてある。負けるつもりなど毛ほども無いが、これでどちらに転んでも重雄を陥れることが出来るはずだ。

 後はただ、目的の人物を静かに待つのみ。

 そして。

 幾らか遠くで、車の止まる音が聞こえた。次いで、ずっと向こうの角から現れる人影。

 ――来た。

「よぉ、重光。さっきぶりだな」

 人影――重雄は、杖を突き、ゆっくりとした足取りでこちらへ向かってくる。

 が、その周囲に取り巻きの姿は無い。

 ……そうだろうとは思っていた。組織全体がグルになって重光を殺しにかかるのならば、組の中で孤立させて、外に出てから殺すなんて回りくどい方法を使う必要など全くない。そのまま全員で袋叩きにすればいいのだから。

 であれば、何故こんな遠回りをしたのか。

 決まっている。加担者が極端に少ないからだ。少なくとも、お題目を作らなくてはならない程度には。

 だからと言って、大名行列のようにぞろぞろと構成員を連れてくるというのも上手くない。そんな事態になっては、警察もさすがに目を付ける。重光達が逮捕され、千鶴が重雄達について口にしたとなれば、それこそ致命的だろう。

「……で? 何が目的だ、お前」

 気が付けば、五メートル程度まで近づいていた重雄が、問う。

 底冷えするような視線。しかし今の重光は、優位に立っていることも手伝って、それを正面から受け止められた。

「俺に擦り付けた殺しや、あとは実の親について。サツにでも正直に話してもらおうか」

「……証拠は、とは訊かねぇよ。よく調べたもんだ」

 呆れたように嘆息する重雄。

 次の瞬間だった。

 

「そこまで知ってんなら()るしか()ぇな」

 

 パァンッ! と。

 乾いた炸裂音が、周囲に鳴り響いた。

 脇腹に灼熱に焼ける刃を突き刺されたような、激しい痛みを感じた。重光が己の体を見下ろせば、腹から蛇口を捻ったような勢いで紅黒い液体が溢れている。

「がっ……はァ……ッ!」

 思わずその場に膝をつく。

 重雄の手元から、煙草のような煙が一条、立ち上っているのが見える。――拳銃だ。

「備えってのは大事だよな、重光」

 もう数歩前へ踏み出せば手が届きそうなほどの距離から、重雄は言う。

「重光よォ。お望み通り正直に言ってやるとだな、元々お前は使い潰すために拾ってやったんだ。それが、妙に力つけやがって……」

 ガチリ、と撃鉄を起こす音が聞こえる。

 顔を上ると冷たい銃口が額に触れ、思わず冷汗が噴き出る。

「――求心力のあるやつが、一つの組織に二人もいたら、困るんだよ」

 あばよ、と締め括り、重雄が引き金にかかる指へ力を籠める。

 そのタイミングを狙った。

 勢いをつけて頭を横へ逸らす重光。射線から逃れた瞬間、こめかみから髪数本を挟んだ場所を弾丸が駆け抜ける。

 音速を超えた鉛の飛礫はソニックブームを発し、衝撃波が鼓膜が破れる程の大音響とともに襲い掛かってきた。

 しかし構わない。今優先すべきは銃を相手の手から遠ざけることだ。

 片膝から無理やり立ち上がり重雄の手を蹴り上げてなんとかその中の銃を弾き飛ばした。よろけながらも距離を取り、再び対峙する。

「づッ……、丸腰相手に……ハジキ使うとは、なぁ……」

「スポーツじゃねぇんだ。フェアプレーなんか期待するんじゃねぇ」

 荒い息を吐きつつ嗤う先では、重雄が新しい得物を取り出していた。鈍い銀の輝きを放つ、匕首拵えの短刀(ドス)が一振り。

「さて、重光」

 小さいながらも、確かに業物の気配を感じさせるそれを構えながら、重雄が呟く。

 辺りには、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。

「年貢の納め時だ」

 

 

「羽黒が東条組と結託し、一連の犯行に加担していたことを自供しましたよ」

 取調室から出てきた宇津木は、ネクタイをやや緩めながら、蒼月に言った。

 宇津木による苛烈な詰問は実に二時間以上に及んだ。取り調べ一回当たりの時間が平均一時間半であることを思えば、羽黒は粘った方だと思う。

「死体処理についても認めたんですか?」

「ええ。これでようやく、仁科の無実を証明できる」

 蒼月の問いに、宇津木は力強く頷いた。

「その上、経歴を洗ったところ、過去にも色々と後ろ暗いことがあったようです」

 言いつつ、宇津木はメモ帳を取り出す。小さな紙面に書き込まれているのは、羽黒の余罪についてだ。

「医大に入学するときから東条組に伝手があったそうで、いわゆる裏口。入学後も違法ドラッグの密売をしたり、半ば無理矢理に淫らな行為に及んだりと……」

「そこまでしておきながら今まで露見したことが無いとは……そこもやはり東条組が?」

「何らかの力は働いていたのでしょうね。その見返りに、組織が作った死体の処分を手伝っていたようです」

 医学的な知識があれば、被害者の特定を極めて困難な状況に持ち込む方法を考えるのも容易だったろう。技術は人の幸福のためにあるべきだが、コインには必ず裏があることを思い知らされる。

 ふと、あることが気になって蒼月が問う。

「東条組が事件を起こした動機についてはわかりましたか?」

「いえ、そこまでは。ただ、どうにも内輪の制裁のようで……」

「制裁?」

「ケジメってやつです。裏切者やら、大きな失態があった人物の粛正」

「……」

 数瞬、蒼月は考え込む仕草をした。

 ――高橋重光と彼が連れている女性。

 ――役所に残された、東条重雄の家系図。

 ――組とは無関係であるはずの、重雄の元妻の殺害。

 彼の脳内であらゆる情報が絡まり、結びつき、やがて一つのシナリオを描き始める。

「……宇津木警部補」

「なんです?」

 訝し気に尋ねる彼に、蒼月は真に迫った表情で告げた。

「可能な限り速やかに、重光の足取りを追ってください。私の推測が正しければ――手遅れになってしまう!」

 

 

 

 ヒュン! と風を切る音とともに、白刃が虚空に散る雨粒を斬る。雨脚は、静かに、しかし確かにその勢いを増していた。

紙一重で躱すも、肌を撫ぜた刀身がプツリと紅い線を一条描くのを見て、重光の背筋が凍りそうになる。

 老人とは思えぬ素早さと鋭さを以って間断なく攻めてくる重雄を何とか凌ぐ。もうこのやり取りが数十分は続いただろうか。

 脇腹の傷も、大きな血管や臓器を食い破ることは無かったようだが、それにしても出血が酷い。ここまでよく戦い続けられたものだと思う。

「ちょこまか逃げんなァ、重光ゥッ!」

「テメェこそ……大人しく殴られやがれ……ェッ!」

 威嚇するように重雄が吼える。鋭く突きこまれた一撃を片手で振り払いながら、応じるように咆哮した。

 どうにも血が足りない。意識に霞が掛かり始める。無理矢理繋ぎ止めようとしても、滑り落ちてしまいそうな感覚の中で、重光は必死に戦い続ける。

 

 ――その姿を、千鶴は物陰から見ていた。

(重光さん……!)

 下唇を噛む。

 情けない。結局、自分は何もできないのか。自分は、ただここで指を咥えて見ているだけなのか。

 自分は。

 こんなにも、無力だったか?

「……ッ!」

 歯を付き立てた肉から血が滲む。

 あの人が、苦しんでいる。

 あの人が、傷ついている。

 あの人が、あんなに懸命に戦っている。

 それなのに自分は何もできないなんて、そんなのは。そんなことは。

(絶対に、イヤだ)

 千鶴の視界に、ある物が映りこむ。

 それは、重光が蹴り飛ばした重雄の拳銃。

 気が付けば、体が動いていた。

 雨粒を弾く鉄の塊を、白く細い指が包み込む。手の中に生まれる、ズシリと重い感触。

 視線を戻す。呆気にとられたような重光と目が合った。

 いつものようにへにゃりと笑ってみせながら、手の中の塊を構える。銃口の向かう先には、ようやく事態に気づいた重雄の姿。

 引き金を指が捉えた。重光が何かを叫ぶのが聞こえた気がするが、今は無視することにした。

 ――だって、決めたのだ。

 紙縒りのように、集中が一点へと絞られる。狙いは定まった。銃などゲームで撃っただけだが、それでも今はこの手の中にある。

 ――この感情は。

――この(かんじょう)は、絶対に諦めない。

 人差し指を一息に動かした。既に起こしてあった撃鉄が、薬室内の弾丸の雷管を叩き、火薬が炸裂。閃光とともに、被甲された鉛が真っ赤に焼けて飛び出していく。

 駆けろ。

 この想いのように、真っ直ぐ――!

 

 辺りに銃声が轟いた。

 ギンッと、硬い物がぶつかり合い、砕け散る音が鳴り響く。

 千鶴が放った弾丸は、重雄ではなく、彼が持っていた短刀を破壊した。

「重光さん!」

 可憐なソプラノボイスが耳に届く前に動き出していた。

 弾丸の勢いに大きく手を引かれ、体勢を崩した重雄に躍りかかる。相手の瞳に浮かぶ色は、焦燥か、それとも恐怖か。

 精一杯の気力を振り絞り、拳を握り締める。朦朧とした視界の中で、しかし相手の姿は明瞭に捉え、決して離さない。

 最後の交錯の瞬間、囁くように告げる。

「――偽の名(しげみつ)はもう終いだ」

 それは、完全な決別の証。

「俺の名前はァ……ッ!」

 勝負は全て、この一撃にかける。

 そして、最後の台詞とともに――

「堅市、だァァァッッ!!

 ――肉を打つ鈍い音が、全てに終止符を打った。

 

「づ……ッ!」

 脇腹の痛みに顔を顰めながら、堅市はゆっくりと上体を起こす。

 見下ろした先には仰向けに倒れた重雄の姿が。上手い具合に脳震盪を起こしているらしい。

「重光さん!」

 先程と同じ声が駆ける足音とともに近寄ってきたかと思うと、肩に重みが加えられた。首にまとわりつく、温かく、柔らかい感触。

「重光さん! 重光さん!」

「……耳元で騒ぐな。それにその名前はさっき捨てた。俺の名前は堅市だ……」

 必死に自分の名を呼ぶ彼女に、なんとかそれだけ返す。これが精一杯なのだ。

「――カッ、ハハ……」

 不意に、皺がれた笑い声が聞こえた。

 倒れた重雄からだ。

「備えってのはァ……大事だ、なァ……?」

「……まだ起きてやがったか」

 何とか手で千鶴を手で庇おうとする。が、重雄の方も脳震盪が続いているらしく、立ち上がりもできない様子だった。

 だが、その口元にはあの邪悪な微笑が浮かんでいる。

「詰んでんだ、よ……、お前た、ちィ……。最初から、な……」

「……どういう意味だ」

「カッ、クッ、ハハハ……」

 堅市の問いをたっぷり数秒嗤ってから、重雄は眼だけで二人を見る。

 そして、言った。

 

「……お前ら、本当に俺が、わざわざ一人で来たと思ってんのか……?」

 

 バシャシャシャシャシャッ!! と。

 雨の音に混じって、複数人が、水たまりができた地面を駆ける音がした。

 堅市と千鶴はサッと顔を青ざめさせる。

 ――伏兵!

「……万が一を想定していたのは、お前らだけじゃねぇ……。こちとら、お前ら二人を消せば、あとは何とかなるんだ」

 重雄の言葉が、徐々に普段の調子を取り戻し始める。

 堅市はもう動けないし、千鶴にヤクザと、それも複数人と渡り合う程の力はどう考えても無い。

 絶体絶命。

 まさに袋の中の鼠といった二人を見つけながら、重雄が声を張り上げた。

「ヤロォどもォォォッ! こいつらを殺れェェェェッ!」

 物陰から、一斉に人が飛び出す。その誰もが武装している。二人が逃れることは不可能だ。

 が。

「――誰があなたの命令を聞くと?」

「……………………あ?」

 人々の中から、若い男の声が発せられた。

聞き覚えは無い。思わず、その声に重雄は間抜けな声を上げてしまう。

そう、物陰から飛び出てきた人間は、彼の部下では無かった。

紺の乱闘服に、その上の防弾ベスト。右胸に輝く桜をかたどった階級章に、足元の安全靴。手には透明な盾を携え、極めつけには、各所に装着されたアーマーの、『POLICE』の文字。

 そう、彼らは――警察機動隊。

 そんな物々しい集団の中から、一人の青年が現れる。黒のスーツに紺のネクタイ。ジャケットに輝くは秋霜烈日の徽章。

 堅市と千鶴は知らないことだろう。

青年は、世間には鴇永蒼月と呼ばれている男だった。

 彼は肩をすくめながら、地に倒れたままの重雄に笑いかける。

「ここの周りにいたガラの悪い方々、もしかしてあなたの部下でした? でしたら申し訳ない。とっくに我々が捕縛済みです」

 ギラリと。

 そこで、急に青年の目つきが鋭くなった。

「――あまり国家権力を舐めるな」

 低い声で言う青年。その姿にどこか懐かしいものを感じた直後に限界が来た。

 周囲の音が、一気に遠くなる。機動隊が周りを取り巻く音も。こちらへと歩いてきた青年が、重雄の腕に手錠をかける音も。

 そして――己の名を呼ぶ、千鶴の声も……。