第十話 それぞれの戦い

 捜査本部の時計は夜中の二時を指していた。

 東条重雄宅での実況検分を終えた宇津木と蒼月は、互いに向き合う恰好で座っていた。

 両者とも、浮かべる表情には疲労の色が濃い。

「骨が折れましたね、東条重雄の事情聴取は」

 先に口を開いたのは蒼月だった。

「俺は何も知らないの一点張りで、終いにはお前たちが無能だからこんなことになったんだと散々詰るし……。困ったことになりましたね」

「仕方がありませんよ、我々に落ち度があったのも事実です」

 宇津木はコーヒーを啜りながら、椅子の背もたれに腕を回す。連日の激務に加え、自業自得とは言えつい先程まで所長の罵声を浴びながら始末書を書いていたのだ。体にも心にも響く。

「ここまでやって、被疑者はなお逃走中ですしね……」

「宇津木警部補、そのことなんですが」

 蒼月はにわかに声を潜めた。

「私、考えてみたんですよ。先程のあなたの話を聞いて」

「先程?」

「ほら、仁科縁里の件です」

「ああ……」

 何を言わんとしているのかを察し、宇津木も声量を抑える。

 蒼月は続ける。

「今の所、逃亡中の高橋重光と仁科の接点は見つかっていません。もしかしたら、まだ見つかってないだけかもしれませんが、これは無視できない」

 語る蒼月の眼には、いつの間にか鋭い光が宿っていた。

「裁きの庭における不文律――被告人は飽くまで被告人であり、その存在は無罪という前提の上に成り立っている」

「鴇永検事? ええと、その……」

 宇津木は鴇永の眼光に気圧されるようにたじろいだ。

 天の成せる麗質とも言うべき、一人の検察官の怜悧な頭脳。その片鱗が垣間見えた瞬間だ。

 だが、

「高橋重光と仁科縁里の接点なら、見つかったよ」

 見計らったようなタイミングで、そんな声が飛んできた。

 振り返れば、検死官の羽黒紅雪が立っていた。

「何ですって!?

 宇津木は瞠目して立ち上がった。蒼月も予想外の事態に目を見張っている。

 羽黒は淡白な口調を崩さない。

「遺体を解剖する部屋から、二人目の被害者の首を切断するのに用いられたとみられる電動のこぎりが見つかった。無論、そののこぎりを持ち込めたのは仁科だけだ」

「そんな……」

「さらに、解剖室をくまなく調べてみたところ、高橋重光の指紋や頭髪も検出された。鑑識には私も立ち会った。間違いない」

 宇津木の体から力が抜ける。それでは、仁科が無罪になる最後の道も途絶えてしまったことになるのではないか。

「これらから推測するに、高橋重光は仁科の協力を得て検死施設内に出入りしていたのだろう。主犯格は決まったも同然だな」

 そう言って、踵を返そうとする羽黒。

「待ってください」

 それを引き留めたのは、蒼月の言葉だった。

「いくつか質問をさせていただいても、よろしいですか?」

 彼は真っ直ぐに羽黒を見つめている。その視線には、先程までの鋭さが戻っていた。

「……なにか」

「問題ののこぎりですが、最初に発見したのはどなたでしょうか?」

「助手の一人だ。私と一緒に解剖室に入った時、彼が見つけたんだ」

「では、それより前に解剖室へ入った人は? 勿論、仁科が拘留されてから凶器発見までにです」

 淀みなく紡がれる言葉に、羽黒は訝し気に目を細めた。

「それは……具体的な数は把握しかねますが」

「そう、相当数の警官が出入りしたはずです。管理者が逮捕された以上、これは家宅捜査のようなものでしょう」

 しかし、と、蒼月はそこで一度台詞を切る。その視線をより険しいものへと変わる。

「その時には発見されなかった凶器は、私たちがこの操作の担当に着任してから出てきた」

「……何が言いたい!」

 痺れを切らしたように羽黒が声を荒げる。

 その返答を聞いた蒼月は、数秒の瞑目ののちに――爽やかな笑みを浮かべる。

「――いえ、単なる確認作業ですよ」

 それを聞いた直後に、羽黒は憤慨した様子で鼻を鳴らし、立ち去って行く。

 検死官の姿が見えなくなってから、宇津木は蒼月に歩み寄った。

「あの、鴇永検事。今のは……?」

「宇津木警部補、想像してみてください」

 言いながら、人差し指を突き立てる蒼月。

「相当数の警官が探したのにも関わらず見つからなかった凶器が、我々が着任してからポッと出てきた――あまりにも不自然だとは思いませんか? そう、まるで新しく(・・・)入って(・・・)来た(・・)()()()()黒幕(・・)()いる(・・)()()よう(・・)()

 その指で虚空に円を描きながら、蒼月はさらに言葉を重ねる。

「さらに言えば――これは証明する手立ては今の所無いのですが――私は一度も、解剖室に入ったことは無いのですよ。つまり――」

 蒼月が、自らの推論を説こうとした時だった。

 単調な電子音が、二人の注意を引き付ける。

「……先程から間の悪い。ちょっと失礼」

 渋い表情をしながら蒼月は携帯電話をポケットから取り出し、部屋から出ていく。

 と、その彼と入れ違いに、捜査本部に若手の警官が、資料を片手に駆け込んできた。

 相当慌てていると見え、足元はぐらつき、肩で息をしている。

「宇津木警部補、これを見てください!」

 そう言って差し出してきた資料を受けとる。表紙には『被害者の詳細』と明朝体で書かれていた。第二の被害者の詳細がようやくわかったらしい。

 氏名、年齢、住所などの基本的な情報にざっと目を通していくと、資料に紙が数枚重なっているのに気付いた。

「そちらの資料には、戸籍謄本の写しも載せてあります」

 言われて、視線を下へ移せば確かに被害者の家系図が書かれている。

 と、ある表記が目に付いた。

「……元配偶者が、東条重雄? あの東条組のか?」

「どうもそのようで……」

 さらに詳細を目で追っていく。

「実子、東条千鶴(ちづる)。一九九六年生まれ……養子もいるな。高橋堅市。こっちは一九八七年生まれか」

 その下にもう一枚紙があった。こちらは養子の家系図らしい。

 養子に出されるぐらいだから想像はしていたが、どうもそちらの家族も全滅しているらしい。

「えぇと、父・高橋法助。母・高橋共子。弟・高橋――」

 家系図の名前を順に呼び上げていた宇津木の口が、そこで止まる。そこにあったのは、彼の見覚えのある名前だった。しかも、実に記憶(・・)()新しい(・・・)

「どうされました?」

「いや……」

 怪訝な表情で聞いてくる警官に、宇津木は曖昧な返事で答える。

 ちょうどその時、蒼月が外から帰ってきた。

 彼は頭を下げながら宇津木へ歩み寄る。

「すみません、宇津木警部補。白烏留置所からでして――仁科縁里が面会を申し出てると。これからお時間、いただけますか?」

「……」

 そう尋ねてくる蒼月の姿を、宇津木はじっと見つめていた。

 だが、すぐに小さく頷きながら返事をする。

「……ああ。わかりました、行きましょう」

「良かった。では、こちらへ。私も同行します」

 そう言って、道を手で示しながら歩き出す蒼月。資料を持ってきてくれた礼を若手の警官に述べてから、宇津木もその後ろに続く。

「あ、そうだ」

 廊下に出てから、そういえば、といった調子で蒼月は背後の宇津木へ話しかけた。

「先程の警官ですが、なんの資料を持って来たんです?」

「ああ、二番目の被害者の身元が分かったということで」

 宇津木としては、先程の資料にそれよりも衝撃的なことが載っていたらしく、実に興味薄げにその情報を口にした。

「それが東条重雄の元妻だったようで、名前は――最神(・・)()()、というそうです」

 

 

 

 タイヤの交換と夕食を済ませた重光と有希の二人は、街外れのホテルにチェックインしていた。例によって、顔がバレるのを避けるためにラブホテルだが。

 後でナンバーと車体にイジリを入れておかねぇとな、とは思ったが、流石に疲れが勝ったので明日以降にすることにした。

 風呂も明朝に回すことにして、有希に先に寝る旨を伝えた。ベッドはやはり女の有希に譲り、重光はソファーに横になる。

 が、如何に劣悪な環境であろうとも、余程疲れていると案外すんなり眠れるものらしい。うつらうつらと微睡んでいる内に、瞼は閉じ、重光の意識は闇に落ちていった。

 ……。

 …………。

 ふと、唐突に目が覚めた。

 部屋の灯りはは既に落とされ、小さな窓からは極彩色のネオン光が薄く差し込んでいる。

 時計を見れば深夜の二時。草木も眠る丑三つ時だ。

 一先ずコップ一杯の水を飲み、寝起きの喉を潤す。

 違和感を感じ、ベッドの方を見る。そこには有希がいるはずだ。

 だが。

 乱れたベッドの上には、誰もいなかった。

 

 結論から言って、有希はすぐに見つかった。

 白烏街の波止場で海を眺めていたのだ。

「ここにいたか」

 彼女の背に声を投げかけると、その肩が小さく跳ねた。

 有希が、こちらへ振り向く。

「な――」

 その顔を見て、重光の口から思わず、驚愕の声が漏れる。

 有希は泣いていたのだ。その大きな瞳から、涙の筋を頬に走らせて。

「重光さん、ごめんなさい。私はあなたに、隠し事をしていました」

 有希がそっと口を開く。

 雲の切れ間から顔を覗かせた月が、彼女を照らす。

 青い月光の中、夜の海を背に佇む彼女の姿は、まるで何処かの宗教画のようだ。

 あるいはその美しさに飲まれていたからだろうか。

重光が呆気に取られて、ただ黙って彼女の告白を聞くよりほかが無かったのは。

 

「――私の本当の名前は、東条千鶴。東条重雄の実の娘で、あなたを殺しに来たんです」

 

『東条重雄には、実の娘がいる』。

 かつて高倉から受け取ったノートが脳裡を過ぎる。

 次いで、宿泊先として利用したホテルで、有希が使用した偽名。

 全てのピースがつながっていく。

 ようやく現実へ戻ってきた重光は、静かに問う。

「……殺しに来た、だと?」

 コクリ、と。

 有希は――否、千鶴は、小さく頷く。

「言葉の通りです。重雄に命令されて、私はあなたに近づいた。あなたを……殺すために」

 悲し気な瞳で答えるその姿は、さながら水辺の精霊か、あるいは旅人を水底へと誘う妖魔か。

 一陣の風が、千鶴の黒髪を揺らす。

「最神有希。この名前だって、母の旧名をそのまま使っただけなんですよ?」

「……なんのために」

 半ば呻くように重光が言う。それは眼前の彼女というよりも、ここにはいない別の何者かに向けているようだった。

「なんのために、俺を……」

「さあ?」

 対する千鶴の反応は、あっけらかんとしたものだった。

「あの男の考えなんて、私にはわかりません。知りたくもない」

 一瞬だけ、人形のように愛らしい千鶴の顔が歪む。その表情が示すのは、煮え滾るような憎悪だ。

「二十年間、ほとんど女手一つで私を育て上げてくれた母さんは、殺されました。世間の人なんて所詮は他人。暴力団が関わっていると分かれば、助けてくれる人なんていません。天涯孤独、頼る宛てもない私は、あの男に従う他なかった……!」

 千鶴の手が握りしめられる。その肩が震えているのは、力を籠めているからだけではないだろう。

 が。

 不意に、彼女の手から力が抜ける。俯きがちだった顔が上げられると、そこには困ったような微笑があった。

「結局、できませんでした」

 乱れる髪を片手で抑え、彼女は最後に溜息混じりに呟く。

「……あーあ。言っちゃったなぁ」

 諦観か。後悔か。

 その言葉に込められている感情に思いを馳せ。

 それでも、重光は呆れたように言った。

 

「馬鹿か。そんなの、一ミリだって理由にならねぇよ」

 

「え……?」

 千鶴が呆気にとられる番だった。

 それにもお構いなしに、重光は言葉を重ねる。

「天涯孤独? 頼る宛てもない? そんなのは理由になんねぇよ。だったら立ち向かってみればいいじゃねぇか。失うものがないなら、なりふり構わず噛みついて、一緒に奈落に引きずり込んでやればいいじゃねぇか!」

「そんな……」

 震える声で、千鶴は言い返す。

「そんな風に考えられるほど、私は強くないし、強くもなれない! 貴方の物差しで私にとやかく口出ししないでッ!」

 千鶴の感情が爆発した。紡ぎだされる言葉はもはや絶叫だ。

その眦に、やっと止まったはずの涙がもう一度滲む。

 顔を真っ赤にしてぐじぐじと泣く千鶴の頭に、ポンと大きな掌が置かれた。

 重光だ。

 彼は、真っ直ぐな目で千鶴を見つめる。

「だったら、俺も手伝ってやる」

 今度こそ。

 千鶴が呆けたように重光を見上げた。

「二人とももう後がねぇんだよ。だったらあのクソ親父に、一矢報いるくらいはしてやろうぜ」

「どう、して……?」

 ――どうして。

――どうしてそこまでしてくれるのか。

「どうしてって……そりゃお前、決まってるじゃねぇか」

 困惑と疑問に頭が埋め尽くされた千鶴に、彼は二ィと粗野な笑みを向けた。

「初めに約束しただろ? 『俺がお前の面倒を見てやる』ってな」

 

 

「元気そうで安心したよ、仁科」

「……」

 宇津木が語り掛けても、正面に座る彼女に反応は無かった。口を真一文字に結び、終始俯いている。

 拘置所内に設けられた面会室は無機的で、その場にいる者を虚ろな気分にさせるような、独特の空気に満ちていた。

 ――何度来てもなれないな、ここは。

 そう思いつつ、もう一度会話を振る。

「まさか、こんな形でお前と対面することになるとはな」

「……」

 やはり反応は無い。

 思い切って、本題に切り込むことにする。

「……何かの間違いなんだろ、これは。お前は自ら犯罪に加担するような奴じゃない」

「……事件に関して、私が言えることはありません」

やっと、彼女が消え入るような声で口にした言葉は、それだけだった。

 それ以降はまた、何を話しかけても俯いてだんまりの状態へ戻ってしまう。まるで人形を会話しているようだ。

 そんなやり取りを続けているうちに、特別に設けられた面会時間も過ぎてしまった。

 夜中にこんな仕事に付き合わされて気が立ってるのか、やや乱暴な手つきの看守に連れられる仁科は、最後の最後で、ようやくこちらを正面から見て、一言。

「息災を祈ります、警部補」

 その瞬間、彼女が弱々しく微笑んだように見えたのは、果たして錯覚だっただろうか。

 その言葉に小さく手を挙げることで応えて、宇津木もそそくさと面会室を後にした。

 ――彼女(・・)から(・・)()大きな(・・・)収穫(・・)()携えて(・・・)

 

「どうでした? 仁科縁里の様子は」

 廊下に出ると、待っていた蒼月が開口一番にそう尋ねてきた。

「相変わらずですよ。まったく抜け目がない」

 肩をすくめながら、ポケットから『収穫物』を取り出す宇津木。

 それは、小さく畳まれた紙片だった。

 否。

「――手紙ですか」

「ええ。つくづく思い知らされました。彼女――仁科は優秀です」

 そう、ずっと黙りこくっていた仁科は、しかし何もしていなかったわけではなかった。 看守がくしゃみをした一瞬の隙をついて、宇津木にこの手紙を託していたのだ。

「仕切りで完全に分けられてない面会室だったのは幸いでしたね」

 蒼月はそう苦笑した。

 つられて口元を歪めながら、畳まれた紙を開く。

見つかればどのみち本人に伝わる以上、分かりにくくするのは逆効果だと判断したのか。そこには、暗号でも何でもない簡素な一文が書かれていた。

――『ホシは羽黒』。

「……捜査チームに間者がいたのか」

「看守達の誰かに内通者でもいて、その話を盗み聞きでもしたんですかね……恐ろしい女性(ヒト)だ」

 呻く宇津木に対して、蒼月はさして驚いた様子も無かった。

 思えば、羽黒には不審な点が多かった。妙に執務室へ行く回数が多い。かと思えば、頻繁に誰かと――それも警察関係者ではない誰かと――連絡を取っている……。

 そしてこの間の、不自然なタイミングでの凶器発見。あの時、蒼月の中では既に、羽黒は要注意のリストに入っていたのだろう。

「……さて、そうと分かれば少しまずいかも知れませんね」

 ふと、蒼月が神妙な表情でそう呟く。

「え?」

 発言の意味するところが理解できず、目を丸くする宇津木に、彼は頬を掻きながら答える。

「ついさっき、彼に鎌をかけて随分と踏み込んだことを言ってしまったのですが――彼が真犯人だとすると、バレたと思って何かしてくるかもしれません」

 そう、具体的には――

 

「口封じのために、命を狙ってくるとか」