第二話「空の犬」(解決編)

「空から落ちてきた犬の絵の謎、ですか・・・・・・」
 夢見教授が怪訝な顔つきで呟いた。
 彩那は「はい」と頷き、
「奏から聞きましたよ。夢見教授は名探偵だって」
 Y大学文学部棟の研究室で、彩那は夢見教授に相談を持ちかけた。。数日前に起こった不可解な謎を解き明かしてほしい――と。
「今日は学年末試験の初日ですよ。頼み事があると言うから、私はてっきり試験に関連した質問だと思っていました」
 教授はソファに深く座り込み、
「まあ、どうぞこちらに」
 向かいのソファに座るよう、彩那に促した。
「ありがとうございます」
 元日に起こった奇妙な出来事について、彩那は詳細を伝えた。
「・・・・・・というわけなんです」
「なるほど。どのような謎であるかは理解しました。ちなみに、その犬の絵というのは今も持っていますか」
「はい。これです」
 夢見教授は、彩那の差し出した絵を手に取り、興味深そうに矯めつ眇めつした。
「かなり古いもののようですね。よく見ると、板の上部に小さな穴が開いています」
「なんのための穴なんでしょうか?」
 うーん、と夢見教授は腕を組んだ。
「桑原さんの家の庭にある楡の木の高さはどのくらいですか」
「七、八メートルくらいです。木の高さは、私が子供の頃から変わっていません」
「十メートルに満たないのなら、楡の枝にこの絵を結びつけることはさほど困難ではないのでは? 紐を通すために、この穴は開けられたのかもしれませんよ」
「それが無理なんです」
 彩那は首を横に振って、教授の考えを否定した。
「私の家にある楡は、枝が幹の上の方にしかありません。二階のどの部屋から手を伸ばしても、枝には届かないんです」
「屋根に登れば可能なのではないですか」
「たしかにそうかもしれません。けど、わざわざ屋根に登ってまで、犬の絵を木に結ぶ理由ってなんですか。それに、うちの父も母もその犬の絵には見覚えがない、と言っていました。家族以外の誰かが屋根に登ったとも考えにくいし・・・・・・」
「それもそうですね」
 誰が、なんのために、どうやって、犬の絵を出現させたのか。いくら考えても、彩那は答えが見つからなかった。
「そういえば、今年は戌年でしたね」
 不意に、夢見教授が呟いた。
「桑原さんは初詣の帰りにこの犬の絵を見つけた・・・・・・」
 大量の書物で溢れかえる研究室の中を、教授はぐるぐると歩き回る。時計の秒針が三周したとき、ぴたり、とその動きが止まった。
「・・・・・・教授?」
「そうか、そういうことか」
「そういうことかって・・・・・・もしかして解けたんですか。空から落ちてきた犬の絵の謎が」
 彩那が尋ねると、夢見教授は満足そうな笑みを浮かべ、頷いた。
「ええ。大変興味深い謎でした」
「うちのタロが急に元気になった理由もわかったんですか」
「もちろんです。すべてわかりました」
 夢見教授は悠然とソファに腰を下ろす。
「と言っても、すべて私の想像ですが」
「構いません。教えてください」
「では、結論から言います。桑原さんの前に落ちてきた犬の絵は、もともとは楡の木の枝に結びつけられていた、と考えられます」
「え、でも、楡の枝は高い位置にあって・・・・・・」
「冷静に考えれば、すぐに謎は解けるはずですよ」
 教授は立ちが上がり、研究室の窓を指さした。
「ヒントは天気です」
 今日に限って言えば、窓から見える外の景色は、どこかくすんだ色をしている。どんよりとした曇り空だからだ。今朝の天気予報でも、しばらくは寒い日が続くと、伝えていた。
「あ、そっか」
 彩那は夢見教授に向き直り、
「雪、ですね」
 教授は満足そうに頷いた。
「そうです。ある程度の降雪があれば、雪の重みで、楡の枝は垂れ下がります。その状態なら、二階の窓から手を伸ばし、犬の絵を楡に結びつけることができるはずです」
 たしかにその通りだ。だが、謎はまだ残っている。
「でも、誰がそんなことを・・・・・・」
 父親も母親も、犬の絵にはまったく心当たりがないと言っていた。そもそも、どんな理由があって犬の絵を高い木の枝に結ぶ必要があるのか。彩那には皆目見当がつかなかった。
「楡に犬の絵を結んだのは、おそらく優陽君でしょう」
 夢見教授の言葉に彩那は驚いた。落ち着き払った様子で、教授は続ける。
「従弟の優陽君は、以前はよく桑原さんの家に遊びに来ていたんですよね。ならば、彼には犬の絵を楡に結ぶ機会があったことになります」
 彩那は思わず頭を抱えてしまった。
 優陽君が最後に遊びに来たのはいつ? 
 家の庭に雪が積もった日など、ここ数年のうちにあっただろうか?
 彼女の内心の自問を察したのか、教授は自信に満ちた口調で断言する。
「きっと今から十二年前ですよ。優陽君が絵馬の代わりに犬の絵を木に結んだのは」
 彩那は考えるのをやめ、教授の台詞に耳を傾けることにした。
「ずっと前に、桑原さんの家に泊まりにきた優陽君が熱を出したことがあったんですよね。桑原さんと神社に参拝に行くことを、当時の優陽君はきっととても楽しみにしていた。しかし、熱が出てしまっては家の中で安静にしていなければならない。その悔しさを晴らすべく、あるいはちょっとした悪戯心から、幼い優陽君は手製の絵馬を楡の枝に結ぶことにした。彼は秘密の初詣をしたんですよ。誰にも内緒でね」
 板は絵馬の代わり? では、犬の絵が描かれているのは――。
「絵馬にその年の十二支を描くのは、決して不自然な行為ではありません」
 絵馬に犬を描いたのは、戌年だったからなんだ――。
「なるほど、だから十二年前・・・・・・」
 彩那はスマホを使って、過去の気象情報を調べてみた。夢見教授の言う通り、十二年前には大晦日から元旦にかけ、関東で数センチの積雪が観測されていた。
 目の前に立ちこめていたはずの謎が織りなす霧は、もうすっかり晴れていた。
 彩那はすべてを悟った。
「タロが唐突にはしゃぎだしたのは、優陽君の匂いを絵馬から嗅ぎ取ったからなんですね」
 タロは淋しかっただけなんだ。
 そして、ただ会いたかったんだ。
 空き地に捨てられていた自分を拾ってくれた、優陽君に。

 

 その夜。彩那は彼に電話をかけてみることにした。

 一回のコールがかなり長く感じられた。
 電話口に優陽君が出ても、緊張せずに話せるだろうか。
 彩那は深呼吸を繰り返した。
 大丈夫。不安を覚える必要なんてない。
 ゆっくりと、落ち着いて言葉を交わせばいいんだ。
 コールが切れ、ようやく電話がつながった。
『はい、どちら様ですか』
 聞き覚えのある響きだった。わずかに声変わりをしたようだが、本人に間違いない。
 彩那の胸に、懐かしさが込み上げてきた。
「・・・・・・もしもし、優陽君? 私のこと憶えてる? あのさ、久しぶりに今度会えないかな」

 

 

                                           (おしまい)