第二話「空の犬」(問題編)

 今、何時だろう?
 暖かい布団の中で、身体を丸めながら、枕元の時計を見た。
 時刻は、とっくに正午を回っていた。
 もう少し寝ていよう――。
 彩那が瞼を閉じようとすると、
「正月からいつまで寝てるの! いい加減に起きなさい!」
 一階から母親の大声が聞こえてきた。
 彩那はしぶしぶ起き上がり、パジャマ姿のまま、階下の洗面所に向かった。
 蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。タオルで顔を拭こうとすると、少し頭痛がした。二日酔いだ。昨日は、大学のサークルの忘年会があり、ついつい飲み過ぎてしまった。
「やっと起きたのね」
 母親は台所でお雑煮を温めていた。
 冷蔵庫からペットボトル入りのミネラルウォーター取り出し、彩那は口をつけた。
 リビングにあるテレビがつけっぱなしになっている。
「あれ、お父さんは?」
「さっき商店街に出かけていったわ」
 彩那はテレビのチャンネルを替え、台所のテーブルに座った。
 テーブルの上に、年賀状が何枚かあった。差出人のほとんどが、母か父の知り合いからだった。新年の挨拶をはがきでやりとり大学生は、今日日では少数派だ。彩那自身、今年は年賀状を一通も書いていない。最後に書いたのは、たしか中学生の頃だ。
「従弟の優陽君から、来てたわよ」
 母親がお椀を片手に持ったまま、
「えーと、どれだったかしら」
「これでしょ」
 彩那は一葉のはがきを手に取った。ぎこちない字で、〈桑原彩那様〉と記されている。
はがきの表には、舌を出した仔犬のイラストが描かれていた。
「優陽君って、今いくつだっけ?」
「あんたのみっつ下だから、たしか十七歳になるはずよ。昔は、よくうちに遊びに来てたわね」
 ひとりっ子の彩那にとって、当時、優陽は弟のような存在だった。優陽も実の姉のように彩那を慕ってくれていた。
「そういえば、最近全然会ってない」
 以前は、年末になると、優陽が彩那の家に泊まりに来るのが恒例だった。親たちがテレビを観ながら、お酒を飲んでいる間、ふたりは隠れんぼや絵を描いたりして遊んだ。あと少しで紅白歌合戦が始まるという時間になると、優陽の両親は帰っていき、優陽だけが彩那の家に残った。
 正月はふたりで近くの神社まで初詣に行き、帰り道に甘酒を買って飲んだことを、彩那は思い出した。
「そういえば、うちに泊まりに来た優陽君が熱出しちゃったこともあったわね」
 母親が彩那の前にお雑煮を置く。
「そんなことあったっけ?」
「あったわよ。たしかもう十年以上前ね」
 そんな昔のことなど忘れてしまった。
「久しぶりに電話でもかけてみなさいよ」
「いいよ、別に」
 優陽君はもう高校生だ。特に用もないのに、電話をかけたって仕方がない。気まずい空気になるだけだ。
 彩那は箸を持ち、朝食兼昼食のお雑煮を食べることにした。
「それ食べ終わったら、タロを散歩に連れて行きなさい。昨日は私が行ったんだから」
「わかってますよ」
 彩那はなるべくゆっくり餅を噛むことにした。もちろん、タロの散歩に行くのが億劫だったからだ。

 

 タロは、何年か前に、優陽君が空き地で拾ってきた犬で、薄茶色の毛をしている。ペット禁制のマンションに住む優陽君一家に代わって、篠原家が引き取り、世話をしている。
「散歩に行くよ、タロ」
 庭に出て、彩那が声をかけると、タロは緩慢な動きで首をもたげた。
「リードをつけるから、ちょっと待っててね」
 首輪にリードをつけている間、タロは地面に寝そべったままだった。
 タロは最近、元気がない。以前は、散歩に行くとき、嬉しそうに跳びはねて、尻尾を振ったのに――。年のせいなのかもしれない。

「ほら、行くよ」
 リードを何度か引っ張ると、タロはようやく起き上がった。
 せっかくの元日なので、散歩は近くの神社を通ることにした。
 空は晴れていたが、ときおり冷たい風が吹きつける。
「今日は寒いね」
 足元のタロは、なんの反応も返さない。心なしか、タロの足取りはたどたどしい。

 彩那は黙って歩くことにした。
 神社は、たくさんの人で賑わっていた。屋台が何軒か出ており、熊手や達磨、破魔矢などが売られていた。
 彩那とタロは比較的人の少ない場所を通って、境内を進んだ。
「一応、参拝していこうか」
 財布から五円玉を取り出し、賽銭箱に向かって投げる。彩那は適当に手を合わせ、お参りを済ませた。
「これじゃあ、ご利益なんてないかな」
 彩那が独り言ちると、タロは不思議そうに首を傾げた。
「もう帰ろうか」

 

   神社からの帰り道、自宅の前まで戻ってきたときだった。

 カランと音を立て、なにかが上から落ちてきた。
 なんだろう――。
「犬?」
 近づいて、よく見てみると、それは小さな木製の板に描かれた犬のイラストだった。ひどく汚れているが、間違いなく、そこには油性ペンで犬が描かれている。
 絵を手に取り、彩那は顔を空に向けた。
 あの木から落ちてきたのかな。
 彩那の家の裏庭には、大きな楡の木が生えている。てっぺんは屋根よりも高い位置にあり、数本の枝が四方に伸びている。
 彩那は首を横に振った。
 いや、あの木の枝になにかを引っかけるのは無理だ。
 あの楡の枝があるのは、幹の上部だけだ。二階の部屋の窓から身を乗り出して、ぎりぎり手が届かない位置にある。ベランダからも届かない。人為的に、犬の絵を引っかけることは不可能だ。
 彩那はあたりを見回す。
 近隣の住宅は、どれも少し離れている。誰かが二階から落としたものでもない。
 いったい、どこから落ちてきたのだろう――。
 ひとりで考え込んでいると、突然、タロが元気よく吠えた。激しく尻尾を振り、板に描かれた犬の絵に、必死に鼻先を押しつけようとしている。
 ついさっきまでは、あんなに静かだったのに――。
「まさか空から・・・・・・」
 彩那の前に、謎が現れた瞬間だった。

 

                                          (解決編に続く)