第一話「紙飛行機」

 レポートの提出期限まで、残り五分を切っていた。エレベーターを待っているのももどかしく、 かな はY大学文学部棟の階段を一気に駆け上った。
 息を切らしながら、ようやく五階まで辿り着く。腕時計に目をやると、タイムリミットの午後五時まであと二分を切っていた。目的の場所はすぐそこ。なんとか間に合いそうだ。
 奏は胸をなで下ろし、細い廊下を突き当たりまで進んだ。白いプレートに「研究室」と記されたドアが見えてくる。そのドアを二回、奏はノックした。
「どうぞ」
 ドアの向こうから返事が返ってくる。
「失礼します」
 深呼吸で息を整えてから、奏は研究室に入った。
「現在時刻は午後四時五十九分三十秒。ぎりぎりセーフですよね、教授」
 彼女が声をかけると、パソコンの前に座っていた夢見教授がゆっくりと立ち上がった。彼は壁にかかった時計を一瞥してから、「そのようですね」と微笑んだ。
 奏は手にしていたクリアファイルを差し出した。
「これがレポートです。お願いします」
「あとでじっくりと読ませてもらいます」
 夢見教授は受け取ったレポートを大事そうにデスクの引き出しにしまった。
「それにしても、夢見教授の研究室は相変わらず散らかってますね」
 あたりを見回し、奏は呆れたように息を吐いた。
 書架の周辺はおびただしい数の叢書が堆く積み上がり、小高い山をいくつも形作っている。それだけでなくデスクやラック、ドアの脇にはたくさんの書類が無造作に置かれていた。
「少しは整理した方がいいですよ」
「限られたスペースを最大限に活用しているんです。仕方がありません」
「いくら狭いと言っても、教授の研究室は汚すぎます。今のままじゃ、大きな地震があったときに大変ですよ」
「暇な時間ができたら、片付けることにします」
「一年前にも同じ台詞を聞いた気がするんですけど・・・・・・」
「はい、確かに一年前にも言いました。しかし、私は常に複数の研究課題を抱えていて、暇な時間などまったくないのです。したがって、私の言葉に矛盾はありません」
 夢見教授は大きく胸を張った。奏はついつい苦笑してしまう。いつも紳士的で、学生からも慕われることの多い夢見教授だが、かなり頑固な一面もあるのだ。
「研究って、そんなに楽しいものですか?」
 奏が尋ねると、夢見教授は「もちろんです」と頷いた。
「疑問を徹底的に追究することは、私にとって最高の生きがいです。そもそも、人間には好奇心という病にも似た感情が備わっているのです。果たして、目の前に出現した謎を放置できる人などいるのでしょうか」
「わかりました、わかりました」
 話がややこしくなってきた。適当に相槌を返してから、奏は話題を切り替えた。
「ところで、教授。質問があるんですけど」
「なんですか」
「夢見教授は名探偵なんですか?」
「は?」
 椅子に座ったまま、教授は固まってしまった。
「助手の露木さんが教えてくれたんです。なにか困ったことがあったら、夢見教授に相談するといい、って」
「なんのことでしょう」
「今年の春に大学で起こった盗難事件をたちどころに解決したらしいじゃないですか」
「ああ、そんなこともありましたね」
「ほかにも、最近までマスコミを騒がせていた連続放火魔の犯人像を言い当てたり、露木さんがストーカーの被害に遭ったときも夢見教授が解決した、と聞きましたよ」
 奏は夢見教授に詰め寄った。
「全部本当なんですか?」
「え、ええ」
 わずかに狼狽しながらも、夢見教授は首肯した。
「すごい! 教授にそんな才能があったんですね!」
 興奮気味に、奏は声を張り上げた。
「実は、ぜひ教授に解いて欲しい謎があるんです」
「一体、どんな謎でしょう?」
「まずはこれを見てください」
 奏は肩にかけたバッグから一枚の紙を取り出した。紙はメモ用紙ほどのサイズで、何本か折り目がついている。
「片面に文字が並んでいますね。なんと書かれているんですか」
 目を細めながら、教授が訊いた。奏は書かれている文字を読み上げた。
「私はあなたの作品が大好きです・・・・・・と、そう書かれています」
「興味深い文言ですね。まあ、どうぞ座ってください」
 教授に促され、奏は研究室のソファに腰を下ろした。
「事件とも言えないような些細な出来事なんですけど・・・・・・」
 彼女はそう前置きしてから、詳しい事情を説明した。


 奏の所属している文芸サークルは、部員数が十名にも満たない小規模なサークルだが、機関誌は年二回欠かさず発行し、朗読会や批評会なども定期的に行うなど、とても意欲的に活動していた。
 遡ること一ヶ月前の夏休み。その日、奏は大学に登校していた。Y大の倶楽部棟三階にある部室で、小説を執筆することが目的だった。近頃、自宅ではどうしても執筆に集中できないので、思い切って場所を変えてみることにしたのだ。
 正門を抜け、キャンパスの南端を目指す。五分ほど歩くと、築三十年を誇るY大の倶楽部棟が見えてくる。
(ふー、暑い。これじゃ、部室もサウナ状態ね)
 夏の日差しに炙られながら、奏は額の汗をハンカチで拭った。
 倶楽部棟の昇降口から階段を上り、三階の部室の前に立つ。奏は覚悟を決め、思い切ってドアを開けた。不快な熱気に全身が呑み込まれる。急いで窓に駆け寄り、空気の入れ換えをした。
 部室にエアコンは設置されているが、「夏期休業中はなるべく使用を控えるように」と部長からきつく言われている。以前、夏休み中に部室のエアコンを使いまくったために、「いくらなんでも使いすぎだ」と大学側から怒られたことがあるらしい。挙げ句の果てに、その年は部の予算をカットされる憂き目にも遭ったとか。
 幸いにも、今日は風が吹いている。冷房をつけずとも、なんとか乗り切れそうだった。
 奏はパソコンを立ち上げると、早速執筆に取りかかった。
 しかし書き始めたから五分もしないうちに、キーボードを打つ手は止まってしまう。情景描写や登場人物の台詞など、言葉がまったく浮かんでこないのだ。自宅で取り組んでいるときと、まったく同じ症状だった。
(やっぱり、全然ダメだ)
 何度もため息を吐いていると、
「部室に誰かいると思ったら、奏ちゃんだったんだ」
 突然ドアが開き、聞き憶えのある声がした。振り返ると、同じ学年の亜季が戸口に立っていた。
「図書館で借りた本を置き忘れちゃって。それを取りに来たの」
 亜季は照れたように笑みを浮かべた。
「置き忘れた本って、これのこと?」
 奏はパソコンの脇に置かれていた文庫本を手に取り、亜季に差し出した。
「そうそう、ありがとー」
 文庫本を受け取ると、亜季はパソコンの画面を覗き込んだ。
「どう、執筆は進んでる?」
 奏は首を横に振った。
「ううん、さっぱり」
「奏ちゃん、夏休みの前から不調だって言ってたよね。もしかして、スランプ気味?」
「スランプっていうか・・・・・・才能がないことにようやく気づいたって感じかな」
 深くため息を吐く友人を見て、亜季の表情が曇った。
「そんなことないよ。奏ちゃんの小説はおもしろいよ」
「ありがと、亜季。でもさ、小説を書き上げるたびに、最近考えちゃうんだよね。所詮、これは私なんかが書いた文の羅列であって、価値なんてまったくないんだよなあって」
「奏ちゃん・・・・・・」
 亜季は黙り込んでしまった。
 そよ風が窓を通り抜け、ふたりの間をかすめていく。壁に貼られたチラシが音を立ててめくれる。
 唐突に、奏が笑い声を上げた。
「なんてね。感傷的な文学青年を気取ってみただけだから、気にしないで」
「本当? それならいいけど・・・・・・」
「大丈夫だって」
 奏は伸びをすると椅子から立ち上がり、窓に歩み寄った。
「亜季は塾講師のバイトをやってるんだっけ?」
 辛気くさい雰囲気を振り払おうと、奏は明るい口調で話を振った。
「うん、駅前の予備校で。今日もこれからバイトなんだ」
「そっか。外は暑いから、熱中症にならないようにね」
「うん」
 亜季はもう一度頷いてから、「あ、そうだ。奏ちゃんにこれ貸してあげる」と、スカートのポケットから、音楽プレーヤーを取り出した。
「奏ちゃんは普段、音楽とか聴かないでしょ。いい気分転換になるよ」
「え、でも」
「いいの、いいの。そのうち、返してくれれば。じゃあ、私はもうバイトの時間だから行くね」
 手を振りながら、亜季は慌ただしく出ていった。
(音楽か・・・・・・試しに聴いてみようかな)
 奏は椅子に座ると、イヤホンを耳につけた。再生ボタンを押し、机に突っ伏す。
 流れてきたのは洋楽だった。外国語が苦手な奏は英語の歌詞をほとんど聞き取れなかったが、ピアノが紡ぐ旋律は柔らかく耳朶を伝わり、しっかりと心の内にまで響いた。
(この曲、結構いいかも)
 まどろむように身を委ねていると、不意になにかが腕に触れた。
(なんだろう?)
 顔を上げると、机の上に小さな紙飛行機が転がっていた。ついさっきまでは、なかったはずなのに
 奏はイヤホンをとると、外の様子を窺った。
 Y大の倶楽部棟はキャンパスの南端に建てられている。 部室の窓も南側に面しており、そこから外を眺めても、倶楽部棟ほどの高さのある建造物は見当たらない。眼下には、職員用の駐車場があるだけだ。
(もしかして、倶楽部棟のどこかから?)
 奏は窓から身を乗り出し、顔を上下左右に向けてみた。南に面した窓はすべて閉まっており、人がいるかどうかは確認できない。しかし今日は風が吹いているので、どの部屋からも紙飛行機を投げ入れるのは困難なように思えた。
 風が吹き、髪が頬をくすぐった。窓から身を引っ込めると、奏は首を捻った。

(まさか亜季のいたずら? いや、亜季が出ていったとき、机の上にはなにもなかったはずだし・・・・・・)

 紙飛行機を手に取り、よく見てみると、内側に黒い線が引かれていた。不思議に思い、紙飛行機を広げてみると、内側には黒のペンでこう綴られていた。
 私はあなたの作品が大好きです。

 

「・・・・・・というわけなんです」

 奏がひと通りの説明を終えると、夢見教授は受け取った件の紙をしげしげと見つめた。
「なるほど。これは元々、紙飛行機だったのですね。だから、折り目がついているわけですか。それで、このメッセージに気づいたあと、篠宮さんはどうしたんですか」
「どうしたって言われても・・・・・・」奏は困ったように肩を竦めた。「誰が、なんのために、どうやって、部室に紙飛行機を投げ入れたのか、さっぱりわからないんですもん。とりあえず、メッセージの書かれた紙は丁寧に折りたたんで、ずっと私が持っていました」
「そうですか。事情は把握できました」
 夢見教授はそう呟くと、
「ところで、小説の進捗はどうですか」
「え?」
「篠宮さんは今、三つの謎を提示してくれました。誰が、なんのために、どうやって紙飛行機を飛ばしたのか、という三点です。しかし、これらの謎のうち、『誰が』と『なんのために』は推理するうえでの大きな前提が与えられています。それは・・・・・・」
 両手を組みながら、夢見教授は奏の表情を真っ直ぐに見据えた。
「篠宮さんの作品を愛する人が篠宮さんへその想いを伝えたくて、紙飛行機を飛ばした、という前提です」
 奏は困惑してしまった。
「あの、そんなふうに解釈してしまって、本当にいいんでしょうか」
「無論です。でなければ、あまりにタイミングがよすぎます。篠宮さんは小説の執筆が思い通りにいかず、悩んでいたんですよね。そして、その心情を部室で吐露した直後に、問題の紙飛行は飛んできた。このような状況で、その紙飛行機は篠宮さんに送られたものではない、という解釈が成立する余地はありません」
 自信に満ちた口調で、夢見教授は続けた。
「紙飛行機の送り主は、篠宮さんにどうしても小説を書き続けて欲しかったんです。もう一度伺いますが、篠宮さんが夏休み中に取り組んでいた小説はどうなりましたか」
「なんとか完成しました」
 奏が答えると、
「それはよかった」と、夢見教授はまるで幼い子供のように破顔した。
 顔をほころばせる教授を見て、奏はなんだか嬉しくなった。
「紙飛行機を受け取ってから、不思議と小説が書けるようになったんです。以前のように、なんの窮屈さもなく。だから、私、お礼が言いたいんです。紙飛行機を折ってくれた人に」 
「わかりました」
 頷いてから、教授は指を二本立てた。
「ふたつ、確認したいことがあります。文芸サークルの部室に関してなんですが、壁際に本棚かなにか背の高いものを置いていませんか」
「はい。本棚を入り口から見て、右手の壁に置いています」
「では、もうひとつ。部室のエアコンは、その本棚の上に設置されているのではありませんか」
「その通りですけど・・・・・・」
「やはり、思った通りだ。これで、すべての謎が解けましたよ」
「本当ですか!」
「間違いありません。メッセージつきの紙飛行機を飛ばしたのは、お友達の亜季さんですよ」


「亜季が・・・・・・?」
 夢見教授は「はい」と頷き返す。
 奏は慌てて否定した。
「無理ですよ、教授。亜季が部室を出ていったとき、机の上に紙飛行機なんてなかったんですから」
「でも彼女が出ていったあと、篠宮さんは机に突っ伏して音楽を聴いていたんでしょう」
「いくらなんでも、入り口に誰かが立ったら気配でわかります。ドアの前に、亜季は立っていませんでした」
「よろしい。では順を追って、お話ししましょう」
 夢見教授はソファから立ち上がると、ぐるぐると歩き回り始めた。
「亜季さんはまず、篠宮さんの隙をつき、あらかじめ用意しておいた紙飛行機を本棚の上に載せたんです。それをおこなったのは、おそらく篠宮さんが最初に窓に近寄ったときです」
 淀みのない口調で、夢見教授は話を続ける。
「次に音楽プレーヤーを篠宮さんに渡し、曲を聴くよう促すと、亜季さんはすぐに部室を出ていきました。しかしながら、彼女は倶楽部棟を出たわけではありません。篠宮さんと別れたあと、亜季さんは適当な部屋に身を潜めます。まあ十中八九、文芸サークルの両隣のどちらかでしょう」
「それから、亜季はどうしたんです?」
「隠れた部屋の窓を開けると、文芸サークルの部室に向けて、こうしたんですよ」
 教授は研究室のエアコンのリモコンを手に取ると、電源ボタンを押した。ピッという電子音のあと、エアコンが稼働を始める。するとデスクの上の書類が数枚舞って、床に落ちた。
 奏は想像してみた。
 部室のエアコンに電源が入り、送風が始まる。当然、本棚の上に置かれていた紙飛行機は、エアコン風に押される。本棚を飛び立った紙飛行機は静かに机の上に落ちる。
 奏は即座に反論した。
「エアコンのリモコンは、ずっと部室にありました。亜季は持ち出したりしていません」
「汎用のリモコンを用意したのでしょう」
 夢見教授は事もなげに応じ、さらにつけ加えた。
「エアコンが稼働していたのはほんの数秒。おまけに、篠宮さんは音楽を聴いていた。エアコンの起動音や送風に気づかなくても無理はありません。亜季さんはすぐにエアコンの電源を消しと、窓を閉め、今度こそ倶楽部棟を後にしたのです」
 リモコンをもう一度操作し、教授はエアコンの電源を消した。
「おそらく、亜季さんはずっと前から準備をしていたんだと思います。スランプ気味の友人を応援するために」
 奏の脳裏に、ふと亜季の姿が浮かぶ。
(亜季は、ずっと私のことを気にかけてくれていたんだ。でも・・・・・・)
「亜季はどうしてこんなに回りくどいことを?」
 奏が尋ねると、夢見教授は腕を組んで、考える仕種をした。
「いくつか理由は考えられます。ときとして、言葉は口で伝えるよりも、文字にした方が相手に届く場合があります。他にも、大切な友人を励ましたくても自分は口下手だから、という苦手意識を持つ人もなかにはいるでしょう。ただ、亜季さんがこの方法を選んだ一番の理由は・・・・・・」
「一番の理由はなんです?」
 もったいぶる教授の声に、奏は耳を傾けた。
「篠宮さんに好奇心を持ってもらいたかったから、かもしれません」
 好奇心――奏は教授の言葉を反芻した。
 差出人はおろか、どこから飛んできたのかもわからない、不思議な紙飛行機。些細な出来事かもしれないが、そこには立派な謎があった。気づいたときにはすでに、奏の頭の中は好奇心でいっぱいだった。
「人間にとって、好奇心は原動力です。あらゆる負の感情を取り除き、底知れぬパワーを与えてくれます」
 床に落ちた書類を拾い上げると、夢見教授が研究室の窓を開けた。文学部棟の一室を爽やかな風が通り抜ける。
「夏休みが終わってから、亜季さんとは会いましたか」
 夕陽を眺めながら、夢見教授は訊いた。
「いえ、まだ会っていません。けれど、明日、サークルのミーティングがあります」
 答えてから、奏は思案した。
 面と向かって、感謝の気持ちを伝えるのはなんだか照れくさい。どうすればいいだろう。
「あ、そうか」
 こんなときこそ、言葉を文字にして渡せばいいんだ。音楽プレーヤーに、小さな紙飛行機を添えて。文面はそうだな――
  奏は素直な想いを囁くように口にしてみた。

「私はあなたが大好きです」

おわり